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4.嫌われたくない
なかなか寝つけないままに、琉威は翌朝を迎えた。目が全体に腫れぼったいのは、昨晩とめどなく涙が溢れてきてしまったからだった。
今日ほど会社に行きたくないと感じたのは、入社以来、初めてかもしれない。それほどに、琉威はいっそ今日だけはとズル休みをしてしまいたかった。
しかしそういうわけにもいかず、仕方なく顔をしっかり洗って出勤の準備すると、やはり身体は奴隷の如くいつもと同じバスへと乗り込んでいた。
いつの間にか九階の事務所フロアへと辿り着いてしまう。相変わらず先に到着している津田が、琉威へと真っ先に挨拶をしてきた。
けれど津田は、琉威の顔を確認した途端どこか驚いた様子で琉威の手を引いていき、そのまま休憩室へと連れて行かれた。
「矢野君…、どうしたの? 何かあった?」
心配そうに覗き込む津田の顔は、部下という枠を超えた優しさが窺える。その優しさに琉威はついまた涙が込み上げてきそうになった。
「いえ、大丈夫です。ありがとうございます」
ぐっと堪えながら、琉威は自分のデスクへと戻った。
飯嶋はまだ出勤していないようだ。
(仕事に集中しよう…)
任されたばかりの単調な仕事が、今は何より有り難かった。無心になってそれらをこなしていると、時間はあっという間に過ぎていった。
「矢野」
背後からそう呼ばれて、琉威はハッとして顔を上げた。いつの間にか飯嶋は出社していて、琉威の横で書類を手にして立っている。
「は…はい…っ」
クルリと椅子を回転させて、琉威は椅子から立ち上がった。目が腫れているせいで、顔は上げても視線は合わせられない。
やがて飯嶋からは、重いため息が返ってきた。
「これ。良く出来てたから、次のも頼む」
そう言って渡された書類は、先週自分が張り切って作成した資料だった。
「ハイ。承知しました…」
書類に視線を落としたままでしか返事を返せなかった。琉威が最後まで顔を上げられずにいると、やがて諦めたようにその足音は遠ざかっていく。
終業を報せるチャイムが鳴り、琉威は女性陣が帰った頃合いを見て、自分も帰る準備に取り掛かった。
すると帰りがけに津田から声がかかり、琉威は手に持ったコートを一旦、デスクの椅子へと掛けなおす。
「何でしょうか? 僕に出来そうなことでも…」
残業かなと津田に聞こうとすると、
「あー、あのね! 夕飯でもどうかなって」
予想外の返事が返ってきた。
津田がそんな声をかけてくるなんて、琉威には初めてのことだった。いつも残業漬けで、津田とは個人的にはランチでしか顔をあわせて食事をしたことがない。
「でも津田さん、お仕事のほうは大丈夫なんですか?」
「許可は…取ってあるから」
津田はチラリと飯嶋のデスクを見ると、今度は珍しく強引に琉威の腕を引っ張っていく。
きっと今朝の事を相談に乗ってくれようとしているのだろう。
(……それもいいかも)
家に帰ったところでまた、昨晩と同じように落ち込んでしまいそうだからと、琉威は津田の誘いを受けて飲みに行くことにしたのだった。
近くの居酒屋で個室をとると、津田はテキパキとメニューを確認する。琉威のビールと一緒に自分の注文もパネルへといれていった。津田のこういう所は、本当にサポート上手な人だと思わず感心してしまう。
津田はとても聞き上手なうえに人柄も良くて、話をしているうちに琉威はとうとう堪えきれず彼の前で涙を溢してしまった。
「あー、そんなに泣かないで…元気出して? その彼女だって、もしかしたら怒ってなんかいないかもしれないよ」
琉威は、飯嶋のことを現在進行形で片思いしている”彼女”ということで話をしていた。
「でも、オレがバカなことしたから、もの凄く怒ってて…。もう、完全に嫌われたみたい。もう、無理って顔してた…」
(なんか、オレって、けっこう女々しい男だよな…)
メソメソ文句をこぼしながらも、琉威は腹の内で冷静に自分を見下げていた。
(こんな性格じゃ、嫌われても仕方ないか)
チビチビと飲んでいた酒に、逆にのまれてしまいそだった。でもこの津田なら、きっと優しく介抱してくれるんだろうなと琉威は思ってしまう。甘えるつもりはなかったが、今の琉威はいっそ目の前の津田に頼ってしまいたいほどに、すっかり気落ちしてしまっていた。
「もうその辺にしておけ」
津田とは違ってちょっと強めの口調が、琉威の頭の上へと降ってきた。
琉威はぱっと顔を上げてその声の主を見上げると、そこには驚いたことに会社の専務取締役にあたる菅野が立っていたのだった。
「えっ! …どうしてここに?」
と、津田が驚いた様子で菅野を振り返っていた。
菅野とはよく知った仲なのか、津田はそう思えるほどに自然な対応で話を始める。
すると続いて菅野は、自身のスマホを取り出して何やら誰かと話をつけている様子だった。
(そうだ…この人、飯嶋部長を営業から外した人だ!)
またひとつ、琉威は気分の悪くなる事を思い出してしまう。嫌なことが増えてしまった。
通話を終えた菅野に向かって、琉威はあろうことか、専務へと文句をつけてしまっていた。
「…んで、菅野専務は、あんなすごい人を経理部に変えたんですかぁ? オレが営業にならなかったのは、まぁ仕方ないことですケド…」
酒の勢いとは恐ろしいものだ。
琉威は言ってしまってから我に返り、ハッとした顔で二人の顔を見上げた。そんな琉威の顔はみるみる青ざめていく。
「何なんだこの…お前みたいな奴は…」
「…どういう意味でしょうか…菅野専務」
津田と菅野は、二人で何やら意見の不一致があったようで、お互いをじっと牽制し見合っている。
「あのっ、すみませんでした…っ!」
二人の状況がよくわからないながらも、琉威は菅野に向かってひたすら平謝りをしたのだった。
そのまま三人で酒を交わすことになって、琉威は二人の前に向かい合うようにして座っていた。菅野の酒を、隣に座る津田がすぐさま注文用のタブレットへと入れていく。
お通しとビールが運ばれてきて、菅野はネクタイを緩めた。オフモードに入ったようで、目の前に置かれたジョッキを片手にゴクゴクと飲み込んでいった。
菅野は向かいに座る琉威を、じっと見下ろす。飯嶋よりも、菅野のほうが少しだけ視線が高いことに琉威は気がついた。
「俺があいつを上にあげたのは、あいつと俺の条件が一致したからだ」
菅野の言うあいつとは、同僚の飯嶋のことだ。
(…今、なんと?)
菅野から出た言葉に、琉威は固まってしまった。
(飯嶋部長を上げた? 条件が…一致した?)
とすれば飯嶋は、今回の異動が昇進にあたり、飯嶋が経理部を望んだということになる。
(まさか…そんなこと、…あるはずが…)
あんなに営業マンタイプなのに、どうして飯嶋は経理部という異色の職種をあえて選んだのだろうか。琉威は営業という分野に憧れていただけに、飯嶋の考えが全く理解出来なかった。
だから、彼と自分が同じように不遇の境地にあって、同じようにセクシャルな悩みを抱えている存在なのだと、琉威は勝手に思い込んでいたのかもしれない。
(オレ、本当は飯嶋部長のこと、何もわかってなかったんだ…)
琉威の我慢はもう限界を超えていた。涙腺が壊れてしまったかのようにして、琉威の目から涙が止まらなくなる。俯くと、ポタポタと膝を濡らしていく。
「ちょっと…」
津田が何かを言いかけて口籠った。
それほどに琉威は見ていられない姿になっていたのかもしれない。
「飯嶋部長…」
そう呟いたのは津田だった。
「何で、お前らが矢野のこと、泣かせてんの…?」
俯いたままの琉威の横に、ドカッと座る人影がそう文句をこぼした。明らかに、聞き覚えのある声がする。
「飯嶋…部長?」
琉威が顔を上げると、いつもの飯嶋がそこに座っていた。琉威は泣き腫らした目で、菅野とほぼ同じくらいの大きさの彼を見上げる。
「言っておくが、泣かせたのはお前だからな」
菅野はそれだけ飯嶋へと耳打ちすると、津田を連れて席を立った。お前の奢りな?と言い残して、菅野たちは店から出て行ってしまった。
菅野がここへ来たのが偶然だったのかはわからないが、たぶん、飯嶋のことをここへを呼んだのは、先ほど誰かに電話をしていたあの菅野だろう。
二人が居なくなっても、飯嶋は何も話さなかった。やがて、琉威の涙が止まるのを待っていたようにして、ゆっくりと口を開いた。
「で、矢野はなんでそんなに落ち込んでんの? 昨日のこと?」
昨日とは打って変わって、飯嶋はやんわりと宥めるように問いかけた。
「たぶん、お前は懲りてると思ったから何も言わなかったけど、相当怖かったんだろ?」
飯嶋は自分へと出されたおしぼりを、琉威の目頭へと押し当ててやる。琉威はうんと頷くようにして、そのおしぼりへと目を押し付けた。
「オレのことも、怖かったよな。オレも、…あの男と同じようなもんだし」
(え…)
それは違うと言いたくて、琉威はおしぼりから顔を上げた。久しぶりに目を合わせた飯嶋は、ひどく悲しそうな顔をしている。昨日、タクシーから降りた琉威が最後に見た、飯嶋のあの悲しげな表情と重なった。
(あ。だからこの人は、オレを怖がらせたくなくてすぐさま帰ったんだ)
「ち、違います…! オレ、飯嶋部長に嫌われるのが怖くて、怖くて怖すぎて、どうしたらいいかもわからなくて…」
それだけは否定したくて、琉威は掠れる声で捲し立てた。
横から琉威を覗き込むようにして話を聞いていた飯嶋が、大きく目を見開く。
「じゃあ……矢野は、オレに嫌われたくなくて、こんなに泣いてるの?」
「あっ、…当たり、前、じゃない、ですか!」
ぐしゃぐしゃになった顔で、琉威はやっといつもの声量で声をあげた。
「何それ? ホントに…?」
琉威は彼が何を確認したいのかもわからなかった。そして、飯嶋が何をそんなに切実に知ろうとしているのかも。
やがて、飯嶋の顔色がぱっと明るく変わった。
「はっ、何それ…………めっちゃくちゃ、嬉しいんだけど…!」
そう言いながら、飯嶋は隣の琉威へと抱きついていた。琉威は何が起きたのかと動揺するも、抱きつくその腕の力は一層強さを増していく。
「飯嶋部長?!」
「そんなこと言ったら、オレ、勘違いするよ」
飯嶋が嬉しくて仕方のない様子で、少し上擦った声で囁く。琉威はやがて飯嶋の考えに行き着いた。
この人に嫌われたくはない。それは、好きと言っているのと同じでしかないと。
「…っそうですよ! す、好きなんです! …いけません…か?」
おしぼりから顔を上げても、腫れた目を合わせるのはやっぱり恥ずかしくて、琉威はまた俯いてしまった。
その顔を飯嶋は半ば強制的に持ち上げた。驚いて緩む琉威の唇へと飯嶋はキスをする。自身に何が起きたのか琉威が理解するよるも早く、開いた隙間からは飯嶋の舌が滑り込んでいた。
「ン…っ!」
琉威は勢いに押されて、椅子の背もたれへと背中をドンと預ける。更に覆い被さるようにして、飯嶋は身を乗り出した。
個室の奥まった一角で、二人は静かに舌を擦り合わせた。琉威は息が続かなくて、背けるようにしてキスから逃れようとする。
「飯嶋部長…」
思わず呟いた琉威に、
「部長って言われると、ちょっとやりづらくなるなぁ」
軽く笑いながら、その手は琉威の頭を愛しいばかりに撫でつける。
そろそろ出ようと言って、飯嶋は泣き止みはしたものの目が腫れたままの琉威を、急かすようにして店から連れ出した。
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