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1.新入社員の憂鬱
一等地に立ち並ぶビル街の歩道を、足早に通勤する人たちの流れに乗るようにして歩く。その先には、待望の末に入社を果たした会社があった。
社会人になったばかりならば、夢や希望を胸に抱き出勤する若者も多いことだろう。
小寒いながらも、冬とは違うどこか柔らかな気候の下で、矢野琉威(やの・るい)はいよいよ始まったばかりの社会人生活に、早くも挫折感を味わっていた。
(あーーーーっ、行きたくなーーーい…)
まさに、登校拒否ならぬ、出社拒否したい衝動に駆られていた。
それでも、これまで頑張ってきた末に入社することができた会社だからと、嫌だ嫌だと思いつつも足は自社ビルの入口ゲートを潜り抜ける。
とうとう自身の配属された先であるフロアまで辿り着いてしまった。
「おはようございまーす」
行き交う社員らが和かに挨拶を交わしている。そんな中で、琉威も元気はないものの小さく挨拶を口にしていた。
ここは一応、会社の窓口にもあたる管理部といわれる部署である。琉威はその中にある、経理部所属となっていた。
(本当は、営業部を志願してたんだけどな…)
研修時に知り合って意気投合した同期は、希望通りにあっさりと営業部へと配属された。琉威といえば、営業部とは天と地の差ではないかと思うほどの部署への配属が決まったのだ。
こういった割り振りは人事も兼ねている総務部が管轄するのだろうが、琉威にとっての苛立ちは隣の総務部ではなく、この経理部へと向けられていた。
(経理部って、領収証とか、お金の精算をするとこでしょ? オレは営業とかさ、マーケティング関連のことがやりたかったのに…)
あてがわれたデスクの下へと鞄を置いて、琉威は配属当日に渡された引継書を気力がないままにパラパラとめくっていった。
脳裏に浮かぶ言葉は、仕事への文句ばかりだ。
態度に出てしまっていたのかもしれない。様子を伺うようにして、同じ部署の人間から挨拶がかかった。
「おはようございます、矢野君。質問とかあれば何でも聞いてくださいね」
そう琉威へと声をかけたのは、この部署の下っ端取りまとめ役みたいな存在で、課長の津田慧兎(つだ・けいと)だった。
津田は一応、琉威の上司であり、目上の先輩ではあるが、そんな威厳なんて感じられないほどになごやかな雰囲気を纏っていた。170センチ弱ほどの細身で、どちらかといえばカワイイ感じの男性だった。
「あ、ありがとう…ございます」
仕事の流れは書面でもだいたい把握できそうだったが、出てくる勘定科目名や表の仕組みが全く理解できなかった。これは簿記という部類だろうか。まずはそこから勉強しなければ、この部署ではどうにも務まらないように思えた。
(営業マンに簿記なんて、必要ないもんなぁ)
決して必要がないわけではなかったが、琉威にはどう考えても必要性が感じられず、仕事に対してやる気が全くといっていいほどに湧いてこなかった。
「はい、今のところは…」
(何から聞けば良いのかさえ分からない…)
それでもポツポツと言われた仕事をこなしながら、半日が過ぎようとした頃。
「ただいまー」
経理部へと、ここのトップにあたる部長が帰還した。
「お疲れ様です、飯嶋部長。大丈夫でしたか?」
「うんうん、慧兎君の作った資料で問題ナシだった」
「それはよかったです」
こういった二人のやり取りは日常的なようだった。まるで世話女房のような課長と、全てにおいてその部下を信頼し切っている部長。
(あ、この二人。できてるっぽい?)
津田がネコなら、タチはこの飯嶋だな。と。
そんな妄想が琉威にはなぜかしっくりときた。
邪な眼差しを送っていたのだろうか。飯嶋がチラリとこちらへ視線を送ってきた。
(…え?)
一瞬、心臓が驚いて跳ねる。その鼓動はしばらく続いていた。たぶん、驚きのあまりの出来事だったが、飯嶋の流した視線はどこか威圧めいた光を帯びていて、琉威は考えていたことを見抜かれたような気がしてしまった。
(ジロジロと見過ぎた…かな)
ぱっと視線を交わしてはみたものの、妙にその目が気になってしまい、琉威は時間を置いてコソッと隠れつつも飯嶋の姿をもう一度確認する。
そこにはもう、先ほどのような雰囲気はなく、いつもの軽い感じの空気が纏っているだけだった。
普段の彼は、気さくな雰囲気でとにかく明るい性格だった。高身長なうえに顔もイケメンの類で、同じ新入社員の女子からも人気が高かった。琉威から見てもそれは同じで、正直なところ自分のタイプでもあった。
琉威はいわゆるゲイだ。だから、ある程度の付き合いになれば相手がノーマルかどうかくらいは大体把握できる。ただの勘でしかないが。
(まぁ、同じ会社内で、それは無いっしょ)
そんなリスクを侵してまで恋愛する必要はないし、ゲイにはゲイの社交場があるのだから。
それに、今日はどうしても行きたいバーがあったことを思い出す。
ここから自宅へと帰るルートに位置していて、何よりもそこはゲイバーも兼ねている。
琉威はそういった場へ行くのは初めてだったが、社会人になったら絶対に行くんだとずっと心に決めていた。
バーの店主と仲良くなって、会社の愚痴も聞いてもらうんだと。そう思えば、仕事への意欲も僅かながらにアップできそうだった。
就業のベルが鳴るものの、この部署はなかなか人が減らない様子だった。
津田は女性社員を先に帰らせて、残った業務を部長の飯嶋と話し合いながら進めている。
新人の琉威が手伝えることもなく、課長の津田にはあっさりと帰らされた。
(まぁ…ラッキーといえば、ラッキーだったけど…)
行きたかったバーへと琉威は直行する。
別に相手を探す目的だとか、そういうためでは無い。勿論、気の合う相手と出会えればそれも嬉しい限りだが、琉威には今はただ、心の拠り所が欲しかった。
「いらっしゃい。あらー、初めてかしら?」
恐る恐るといった感じで扉を開けた琉威は、店内へと足を踏み入れたとたんに声をかけられて、びくりとそちらを見た。
カウンターの奥からかかった声の主は、男性にしては髪が肩まであり、それを後ろで少しだけアップさせた装いのバーテンダーだった。身長がやたら高くて、口調がオカマっぽく感じられる。
「あ…ハイ。その…いいですか?」
「大丈夫よー。私、こんな感じだけど、あなたの方が大丈夫かしら?」
そう言って、彼は愛想の良い笑顔を向けた。
ノーマルな男性なら引くところかもしれないが、琉威にはどうってことはない。
「いえ、ここには前から来てみたかったんです。入社したら…」
「あら、社会人一年生なの? まぁ大変な時期ねぇ」
カウンターへと案内されて、琉威の顔はぱっと明るくなる。話し易い彼の対応に、次第に気分が良くなった。
ここしばらくの間、すっかり凍え切っていた気持ちが溶解していくようだ。
琉威は気を良くして、空きっ腹ではありながらもビールにカクテルと、久しぶりに味わう美味しい酒を次々と煽りはじめた。
「あらあら…、こんなに飲んで大丈夫かしら…。初めての子だからコッチもペースが掴めないわ…」
ちょっと視界が怪しくなった頃、この店員…もとい店主のママが、琉威の様子を心配してそんなことを呟いた。
「はい、大丈夫ですぅ。こっから家も近いんで…。今日はママさんにたくさん話聞いてもらえて、オレ楽しくって、ついぃ…」
確かに飲みすぎたかもしれない。でも少し休憩すれば大丈夫だろう。ここからタクシーに乗れば、10分ほどで自分の住むマンションに着く。
「ママさん、トイレは…」
酔い醒ましにトイレへと立とうとしたら、予想外に違う方向へと身体が傾いた。
「あれっ?」
「あっ! 危ないっ!」
カウンターの中から、ママの声が鋭く店内に響き渡った。琉威は次に自分へと来るだろう衝撃を覚悟する。
「…っとぉ!」
ぐいっと脇腹から掬われる感覚が入った。
「あ、危なかったーーーっ!」
ふわりと宙で止まった自分の身体を抱える先から、そんな声が上がった。
誰かに支えられて転倒を免れた琉威は、咄嗟にしがみつく形で抱き留められた主へと顔を上げた。
「すみませ…っ!」
謝ろうとしたその先の顔に、琉威は愕然としてしまった。
高身長、イケメンタイプ、つい先ほどまで会社でよく見てた顔の、経理部部長の飯嶋がそこにいたのだった。
「ナイス、友くん! 助かったわぁ!」
ママはカウンターから足早に出てきて胸を撫で下ろすと、琉威を支える飯嶋の代わりに、彼が手に持った鞄を取り上げる。腕にかけていた上着もハンガーへと丁寧にかけなおした。
「え…、矢野…?!」
ぼう然としてしまっていた琉威へと、ようやく誰かに気付いた飯嶋が名前を言った。
「…部長、コンバンハ…です…」
先ほどまでグダグダとママに愚痴を聞いてもらっていた先の、職場の上司である。ママが告げ口するようには見えなかったが、あまりにバツの悪さから琉威は居た堪れなくなってくる。もう帰ってしまおうとして、ママへとお勘定を依頼した。
しかし、その足すらまともに歩けない様子に、飯嶋は小さくため息をこぼすと、
「そんなに脅えなくてもいいってば…。送ってやるから、とりあえず座れよ。矢野」
そう言って、カウンター席の隣を指差した。
飯嶋は店にさっき到着したばかりのようで、ママに向かってビールを注文する。ママと親しげに話し始めた。
琉威は自力で歩くことも叶わないまま、仕方ないと諦めるようにしてカウンターの椅子へと腰を下ろした。
飯嶋とは言葉を交わすこともなく、琉威はぼうっと横に座る飯嶋を眺め入った。
残業からの仕事上がりだと言うのに、明るく楽しそうな表情でカウンターの中のママと話す姿は、琉威の理想の営業マンそのものだった。
琉威はテーブルへと組んだ両腕へと頬を乗せて、その好みな顔をした上司をぼんやりと眺める。
(あぁ…やっぱり、良い顔…)
それに、と琉威は会社での違和感が湧き上がる。
(なんでこんな営業タイプなのに、経理部長なんだろう…?)
明るいけれど声音はそれほど高くはなく、よく喋るけれど、耳に心地良い。
よく眠れそうだと感じながら琉威は目を瞑った。
うとうとと、二人の仲良さげなやり取りを聞きつつ、琉威はその場で完全に眠り込んでしまっていた。
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