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N-2
駅前のスーパーのタイムサービスに間に合った。キャベツの大玉と豚肉が安かったので、冷蔵庫のピーマンを加えて、今夜は肉野菜炒めにでもするか。
ネギのはみ出すエコバッグを片手に、機嫌良くマンションの自宅まで帰って――一気にテンションが下がった。ベランダのカーテンが明るい。家の中に“誰か”がいるってことだ。
「……なんの用?」
玄関のベージュのパンプスで“誰か”は見当がついた。リビングのドアを開けると、ソファで乾いた赤土みたいな髪が動いた。ほぼ1年半振りに顔を合わせた母は、手元のスマホをバッグにしまい、不躾な視線を向けてくる。
「あんた、自炊なんかしてるの。兼松さんはどうしたのよ」
「週に1度は来る。どうでもいいだろ」
手を洗い、使わない食材を冷蔵庫に片付ける。兼松さんとは、俺がこのマンションで1人暮らしを始めた3年前、「お手伝いさん」という名目で大叔母が雇った監視役のオバサンだ。
「まぁ、あたしは口出し出来る立場じゃないけど」
父は、俺が物心ついたときには、既に精神を病んで実家で療養中だった。その父が生きていた頃から、母は家庭に縛られることを嫌い、しょっちゅう家を空けていた。やがて彼女は10歳も離れた従弟と恋仲になり、俺を置いて実家を出て行った。そう、俺はこの女に育てられた覚えはない。大叔母に「お手伝いさん」として連れて来られた一族の誰かが、代わる代わる父と俺の世話をしてきたのだ。
「で? 用件はなに?」
「あんた、進路希望調査票に白丘学園って書いたんだって?」
「ああ……」
その話か。キャベツを切りながら、合点がいった。大方、大叔母から連絡があって、真意を探りに来たってところか。
「県外の高校じゃない。ここを出て行くつもり?」
「寮に入る。卒業後は、奨学金で大学に行くから面倒はかけない」
「本気なの」
「俺は、柳井を継ぐつもりなんか微塵もない。来年、15になったら、正式に放棄する。あんたの息子達にくれてやるよ」
そもそも両親の結婚は、大叔母を始めとした柳井一族が決めたことだという。本家の長男である父に後継ぎをもうけさせるため、分家の中から年頃の娘をあてがったらしい。そうして生まれたのが俺だけど、一族にとっては失望でしかなかった。俺は、祖母の不義で生まれた父と同じ、色素の薄い遺伝的特徴を強く受け継いで生まれてきてしまったのだ。俺の存在は、一族の醜聞の象徴であり、厄介者でしかなかった。だから、父の四十九日を済ませたあと、実家を出て1人暮らしを始めると言い出しても、誰も反対する者はいなかった。俺がまだ小5のガキにもかかわらず、だ。
「話はそれだけ? だったら、帰れよ」
「翼……今更だけど、あんただってあたしの」
「うるさい! 帰れって言ってんだろ!」
ダン、とキャベツを刻む手に力がこもる。今更、しおらしく母親面なんかされたって、虫唾が走る。第一、母は父の死後すぐに従弟と再婚し、2人の男の子を生み育てている。疾うの間に、俺の知らない人達と別の家庭を築いてきた。俺の中では、血の繋がりだけがある他人だ。
母が動く気配がした。振り向かずにピーマンを掴んで水洗いする。流水音に混じって足音が遠ざかり、パタンと玄関のドアの閉じる音がした。
俺はリビングに行くと、消臭スプレーを噴射した。特にソファには念入りに。それから玄関に向かい、ドアチェーンをかけた。この住まいに愛着などないが、自分の縄張りを荒らされたようで苛立ちは収まらなかった。
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