T-2

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T-2

 譲渡会から半月後、市内のカフェで俺達は再開した。箕尾先生の甥だという圭人さんは、父の絵を手放す交換条件に、俺の肖像画を1枚描かせて欲しいと言った。お互いのスケジュールを調整した結果、秋から冬の間に俺が彼の自宅に通って、そこで作業することになった。 「どうぞ。上がって」 「あの、圭人さん」  「圭人さん」――この呼び方は、少し緊張する。最初「箕尾先生」と呼びかけたのだけど、彼は「君の先生じゃないよ」と苦笑いした。確かにそうだ。だから……俺は少し考えて、名前で呼ぶことにした。 「こんな服装で良かったんですか?」  コートを脱いだ俺を眺めると、彼はニコリと微笑んでハンガーを寄こした。レンガ色のセーター、淡いクリーム色のシャツに、濃紺のデニムパンツ。彼のリクエスト通り、ごくごく普通の、普段着だ。 「いいよ。そこに掛けたら、椅子に座って」  アパートの一室をアトリエにしているらしく、その部屋に入ると微かに画材の匂いがした。圭人さんは、俺にポーズを指示しながら、換気扇のスイッチを入れた。ブーンと小さな機械音を、カンバスを擦る木炭の力強い音が掻き消していく。約2時間、たった1人の眼差しが俺だけを見詰めている。緊張するなという方が無理だ。いつもと違う胸の鼓動が気になって……終わると軽い目眩がした。 「翼君? 大丈夫か?」 「はい……緊張しました」 「そうか。居間のソファで休むといい。落ち着いたら、食事に行こう」 「えっ」 「食べたいもの、考えておいて」  アパートでの作業のあと、夕食をご馳走になり、彼の車で駅まで送ってもらう。それが、2週間ごとに訪れる“土曜日の午後のルーティン”になった。  少しずつ自分の姿がキャンバスに写し取られることは、新鮮な体験であり、不安でもあった。隠してきた醜い自分が暴かれるのではないか……そんな懸念を抱きながらキャンバスを覗いたけれど、そこに描き出されていたのは、穏やかな表情で物憂げに俯く青年だった。 「柔らかい……」 「分かるかい?」  フルフルっと、心が揺れた。この人の目に、俺はこんなにも透明で美しく見えているんだろうか。それが嬉しくて……泣きたいくらいに胸がいっぱいになった。  父も……箕尾先生のモデルになったとき、こんな想いに包まれたんだろうか。かけがえのない、この尊い眼差しを失いたくない、と。  このときから俺は、絵の完成が憂鬱になった。父の絵を手に入れることより、圭人さんと過ごす時間の方が大切になっていた。  俺は、圭人さんのアパートで夕食を作るようになった。いつもご馳走になっているから、ほんのお礼のつもりだった。簡単なパスタやカレーなのに、思いの外喜んでくれて……それが嬉しくて、少しでも側にいたくて、食材の買い物も一緒に行くようになった。  もっと喜んで欲しい。もっと笑顔が見たい。もっと……。この気持ちは、なんだろう。
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