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美女の嫉妬はシューベルトの名曲よりおそろしい
ここ、どこだっけ。
綺麗でのどかな草原に秋斗は立っている。
空は青く風が心地よい。思わず秋斗は踊りだす。
次の瞬間、空が真っ黒になる。強い風が木の葉を揺らし、ざわざわと不気味な音を立てている。
秋斗はか細く叫んだ。
「やだ。助けて、誰か!」
霧の向こうに人影が現れる。淡いピンクの長い髪。蠱惑的な微笑み。
その人のそばにはピアノの鍵盤が浮いている。その人は鍵盤にしなやかな指を這わせる。
不気味な曲が鳴りひびく。
この記憶、何だろう――。
≡ ≡ ≡ ≡ ≡ ≡ ≡ ≡
「……と。秋斗」
その声で秋斗は我に返った。きょろきょろとあたりを見回すと、広い部屋の中だった。
「どうした、秋斗。ぼうっとして」
「何でもないの――燈次さま」
秋斗は愛らしく小首を傾げる。すると、秋斗のエプロンドレスがふわりと揺れる。
秋斗はお金持ちの家で働く男の娘メイド。秋斗の目の前で椅子に座る男は秋斗のご主人さまの燈次だ。
燈次は自分の手に持った本に視線を移す。それはハードカバーの本だった。
燈次は本のページをぱらぱらとめくった。
「秋斗これ、ありがとうな」
「燈次さまが買ってきてって言った本、それであってた?」
「ああ」
「何の本なの」
「クラシック音楽を題材にしたミステリー小説なんだと」
「面白い?」
「これから読むから分からんよ」
燈次はニコリと笑った。尖った犬歯がチラリと覗き、秋斗の心臓が思わず跳ねる。
燈次さまの笑顔、やっぱりカッコいい……。
秋斗は目を細め、話を続ける。
「面白いか分からないのに何で買ったの」
「人に勧められたから」
「……ふぅん」
「そうだ、まずはこれを進めてくれた人に礼を言わねばな」
そう言って燈次は電話をかけた。ハンズフリーにしているので秋斗にも話し声がよく聞こえた。
「買ったぞ、さき子。お前が言ってた本」
電話越しに、軽やかで、どこか艶っぽい笑い声が聞こえる。
「で。どうだった?」
「まだ読んでないってば」
「そうじゃなくて」
そう言われて燈次は首をひねった。何を問われているのか分かっていないらしい。
「クラシックを題材にした話なんだってな」
「ええ」
「読んだら感想を伝えるよ」
少し沈黙の後、さき子は何故か不満そうに言った。
「それだけ?」
「ん?」
「そう……」
さき子が不満そうなので、燈次は首をひねった。
「えーと。あ、表紙絵すごいな。綺麗だがおどろおどろしくて、読む期待を掻きたてるような」
「で?」
「すまん。俺は何を聞かれているんだ」
「何でそんなこと言うのよ」
さき子は不機嫌そうだった。
秋斗は思わず笑いをこぼす。
「燈次さまがさき子さまのこと、興味ないからじゃない?」
燈次は「こらっ」とたしなめる。秋斗はいたずらっぽく「ごめんなさーい」と言った。
するとさき子は少し不思議なことを言った。
「その本、あなたが燈次くんに頼まれて買ったのかしら……」
また少し沈黙があった後、電話越しにピアノの音が流れてきた。さき子が弾いているらしい。
綺麗な曲だったが、そばで聞いている秋斗には何故か不気味に感じられた。
一方の燈次は上機嫌に笑っている。
「相変わらず上手い、なんてピアニスト相手に失礼か」
「ありがと。そうだ私、次のコンサートに向けて練習しなきゃ」
「本は読みおわったら感想を伝えるよ」
さき子は小さく「またね」と言って電話を切った。
「何だったんだ、さき子の言おうとしていたことは。……おっと」
秋斗は燈次に抱きついた。電話が終わるのを今か今かと待っていたのだ。
「秋斗、さき子にあんなこと言っちゃ駄目だぞ。びっくりさせちゃったじゃないか」
「はーい」
秋斗が燈次をぎゅうっと抱きしめると、燈次も秋斗を抱きしめ返す。秋斗はうっとりと目を細める。
するとそのとき、扉の外から秋斗を呼ぶ声がした。別のメイドが秋斗に仕事を言いわたしに来たらしい。秋斗は無視をしたが、燈次にやんわりと言われた。
「引きとめて悪かったな、秋斗。もう自分の仕事に戻りな」
「やだ。燈次さまのとこにいる」
しかしドアの外でしつこく名前を呼ばれるので、秋斗は渋々そちらに行った。
燈次の部屋のドアを閉める直前、本のページをめくる彼の姿が目に入った。長い睫毛が下を向いて文字を丁寧に追っている。
美しい横顔に、秋斗の心臓がまた甘い音を鳴らした。
「面白かった!」
秋斗が仕事を終えて燈次の部屋に行くと、彼は本を読み終わっていた。一気読みしたらしい。
「どんな話だったの」
「大まかに言えば正統派のミステリー。クラシック音楽にちなんだ事件が巻きおこるんだ。曲の描写は解像度が高く、メロディーが文章から伝わってくるようだった」
「ふぅん……?」
「使われる曲はシューベルトの名曲『魔王』。これは音楽の授業で習ったんじゃないか?」
「覚えてないよ」
「この曲は歌詞がついているんだが、それが特徴的なんだ。聞けばきっと思い出す。「お父さん、お父さん 魔王が話しかけてくるよ」「坊や、あれは木の葉が風で揺れる音だ」……こんな雰囲気だ」
「何かあった気もする」
秋斗がそう答えると、燈次は妙に興奮した様子で言った。
「そうだろう! あれは授業でやったとき、めちゃくちゃ盛りあがっただろ!」
「たしかにそうかも」
「同級生と話しても未だに盛りあがるんだよ。おとーさん、おとーさん、って言いあってさあ!」
「授業でやったときは盛りあがったけど、すぐ飽きたよ」
「え」
「そんなのでずっと楽しんでるのって、ダサいオタクだけじゃない?」
秋斗が何も考えずそう言うと、燈次は部屋の隅で膝を抱えた。
「お……俺は……習ってから10年経った今もめちゃくちゃ大好きなんだが……」
「え、え」
「さき子はこの話題に乗ってくれるんだがなあ……」
「じょ、冗談! 違う違う! とっても面白いし、燈次さまはカッコいいよ、本っ当に!」
「本当?」
「ほんと」
気をよくしたのか、燈次は饒舌に語りだす。
「シューベルトの曲と言ったが詩を書いたのはゲーテという文豪なんだ。俺は最初それを知らなかった。しかし3年前かな、ゲーテの詩集を呼んでいて、その中に奇妙な物を見つけた。授業で習った『魔王』にそっくりの詩があったんだ。ゲーテの詩に感動したシューベルトが曲をつけたらしい。この発見に俺は感動し、『魔王』の曲も詩も好きになったのだ。ところで俺が呼んだゲーテの詩集、何故か古文の形に訳されていた。いと……けり、とかそんなやつだ。俺は電子辞書片手に逐一調べながら読んだよ。何故外国語の本を古文チックに訳すんだとそのときは憤慨したが、その労力も含めて愛着が湧いたのだろう、閑話休題、近代文学が好きだからその話となると喋りすぎてしまうな、俺うっとうしいか?」
燈次の長ゼリフは半分以上が秋斗の耳をすり抜けていた。でもそんなにも長々と喋ってくれることが嬉しくて、秋斗は顔を赤らめていた。
秋斗の無反応をどう受け取ったのか、燈次はスマートフォンを取りだした。
「そうだ、本を読了したからさき子に感想を伝えねば」
「あ、待って」
「一流ピアニスト直々に宣伝してくれたんだ。礼を言わねばなるまいね」
「待っ……」
「そういえば結局、さき子が電話で言おうとしていたのは何だったんだろう。それが一番ミステリーだ」
秋斗は目を泳がせる。メイド服のエプロンのポケットを無意識に上から押さえた。
「な……何でもいいじゃん」
「この本、何か違和感があるんだよな」
「内容が?」
「じゃなくて、こう、見た目がなあ……」
燈次は本をさまざまな角度から眺める。それは一般的な大きさだ。燈次は奥付けを見る。何度も重版がかかっているようだ。しかも、極めて最近に重版されたようだった。
燈次は表紙を撫でる。そして、カバーを外す。カバー裏もなめるように見る。しかし違和感は見つからなかったようだ。燈次は表紙カバーを戻す。
分からないな、と言って、燈次はさき子に電話をかけた。
呼びだし音を聞いている間、燈次は表紙カバーを指先で撫でていた。違和感を探るように、上から下に、ゆっくりと。
燈次はある一点で指を止めた。
「そうか。人気作なのに、ないんだ。あれが……」
その声を聞いた秋斗は、慌てて部屋を飛びだした。
≡ ≡ ≡ ≡ ≡ ≡ ≡ ≡
秋斗が逃げてきた先は屋敷のそばの神社だった。
長い階段をひとつずつ上る。
最上段に着いた秋斗は、エプロンのポケットを探る。
出てきたのはくしゃくしゃになった細長い紙。ツルツルとした素材で、何か文字が書かれている。
広げてみるとそれは――本の帯だった。
そこには一流ピアニストからの宣伝コメントが書かれている。
そのピアニストの名前は「美図野さき子」。燈次が電話で喋っていた相手である。
秋斗は燈次にあの本を買ってくるように頼まれた。しかし、帯にさき子の名前があるのを見つけてしまった。本は買ったが、帯は取りはらった。
その理由は大好きな燈次の気持ちが、少しでも別の人に向いてほしくなかったからだ。
燈次はたぶん、秋斗のやったことに気づいている。
秋斗は頬を膨らませ、再び帯を丸めて投げた。帯は神社の隅の茂みに落ちた。
そして、軽やかに階段を下りていった。
5分くらい経って、違和感を覚えた。
下りおわらない。上ったときより明らかに段数が増えている。
まだ夕方のはずなのに、あたりは夜の闇に覆われている。
寒気が走った。
「燈次さま」
か細い声で助けを求めると、目の前に燈次が現れた。
「一緒に帰ろう」
燈次に抱きしめられる形で階段を下りていく。ひどく寒い。燈次の腕からも体温を感じられない。
ふと、階段の脇の茂みの奥から笑い声が聞こえた。細く高い、若い女のような声だ。
「燈次さま、何か聞こえるよ」
「俺には何も聞こえんが」
「笑い声が聞こえるよ。お化けみたいで怖いよ」
「木の葉の擦れる音が聞こえているだけだ」
「あそこ、誰かいる。背が高くて……髪が長くて……。ピンクっぽい髪の、何か、女の人みたいな……」
「木のシルエットが重なってそう見えるだけさ」
「ねえ、また何か聞こえる……。これ何だろう、音楽?」
それは低く不気味なピアノのメロディーだった。緊張を煽るように、素早く力強い音が連なっていく。
音は重々しく不気味だ。何か訴えかけてくるような……。それでいて、どこかに誘惑的な優しさがあるような……。
この曲は聞きおぼえがある。音楽の授業で習った。
シューベルトの『魔王』だ。
秋斗の身体がぶるぶると震えだす。
「燈次さま。ピアノが聞こえるよ。怖いよ」
しかし燈次は返事をしない。立ちどまった秋斗を置いて、ひとりでどんどんと階段を下りていく。
「待って、燈次さま、燈次さま!」
秋斗はひとりぼっちになってしまった。
目には大粒の涙が浮かんでいる。
「やだ……ひとりぼっち……」
すると……強烈な風が背後から吹いた。秋斗は近くの木にしがみつく。ふと足元を見ると、紙を丸めたような物が落ちていた。
それは何でもない、ただのゴミに過ぎなかった。しかしそれが秋斗にひらめきを与えた。
秋斗は階段を上りはじめた。不安を煽るメロディーは支配的に鳴りひびいている。最上段まで着くと、木のそばの茂みを漁る。
秋斗が取りだしたのは、先ほど捨てた本の帯。膝の上で伸ばしてみると、美図野さき子の名前が書かれている。
「あった!」
そう叫んだとき、音楽が止んだ。
「秋斗、こんなところに!」
燈次が階段を駆けのぼってきた。
秋斗は彼に飛びつく。
「何で先に行っちゃうの!」
「何の話だ。俺は今来たところだが」
「燈次さま、これ返す。勝手に取ってごめんなさい」
秋斗が帯を渡すと、燈次は優しく微笑んだ。
「ちゃんとごめんなさいできて偉いな」
「うん」
「――見つかってよかったわね、燈次くん」
女の声がした。見ると、燈次の後ろからピンク色の髪の女性がやってきた。
さき子だ。
秋斗はとっさに燈次から離れた。何故かそうしなければいけない気がした。
彼女は手に巻物のようなものを持っている。前に燈次から聞かされたことがある。持ち運び用のピアノらしい。
さっき曲を弾いていたのは、もしかして……。
さき子は秋斗の耳に唇をそっと寄せた。
「思ったより怖がらせちゃってごめんなさい」
「やっぱり、さっきのピアノ」
「ライバルね、私たち」
さき子はそっと微笑んだ。彼女の唇が艶を放つ。
秋斗は子犬のように震え、燈次の背中に隠れる。
さき子はゆったりと微笑んだ。
「今日は燈次くんのことを譲ってあげる。たっぷり甘やかしてもらってね」
さき子は手をひらひらさせ、身体を左右に揺すりながら去っていく。
背面からも美しさがこぼれる人だった。
秋斗は何だか不安になり、燈次にぎゅっとしがみついた。何も分かっていない燈次は、秋斗をそっと抱きしめた。
燈次の腕は温かかった。
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