御手を拝借

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 切り取られた蝋燭の中間の部分を手に、男は「あは!あははは!」と狂ったような哄笑を上げた。整っていた顔がこころなしか歪んで見える。  みるみる間に目尻がつり上がり、革袋を細く切り裂いたようなまぶたの隙間から白目の無い真っ黒の目が覗いた。  異常な角度につり上がった口角から猫か犬のような歯が並んで見える。それを見て背筋に悪寒が走った。  やっぱりこいつは化け物の類だったらしい…  彼はそのまま蝋燭を口に運び、ボリボリと噛み砕いて腹の中に納めた。  こいつの口車に乗ったことを今更ながらに後悔していると、暗い蝋燭の並んだ空間のどこからか、犬の吠える声が近づいてくる。こころなしか人の声も混じっている気がする。  その近づいてくる物音は眼の前の狂った男にも聞こえたのだろう。 「おっと、いけない、いけない」と呟くと、彼は狂った様相を引っ込め、ステッキを持っている手で僕からハサミを取り上げた。  その時見えた左手が視界に入った。その手は指の短い獣の手から、猿のように毛深い指の伸びた手に変わっていた。また背筋に悪寒が走る。体中の毛が総毛立つような気持ち悪さを覚えて、逃げるように後ろによろめいた。  後ろによろけた僕の手を獣の腕が掴んで引き寄せた。 「ダメじゃないか?罪のない他の蝋燭を倒す気かい?」と笑う男の顔は酷く歪んでいた。  渦を巻くように気持ち悪くグニャグニャに曲がる顔は間違いなく笑っていた。 「ありがとう、ありがとう。君はもう用済みだ」  その声と迫る犬の鳴き声を最後に、周りの風景は暗い蝋燭の景色から、見慣れた駅のホームに変わった。  眼の前に引かれた白い線。接近する鉄の塊…  足元がふらついたまま、白線を超えて突っ込んでしまいそうな体勢で元いた場所に放り出された。  必死に踏みとどまろうと周りに手を伸ばして唯一引っかかった物があった。  この際なんでもいい!このまま電車に轢かれて死にたくない!  掴んだものを無我夢中に引っ張って、自分の体勢を持ち直した。その掴んだものが何か、何でそんなところにあるのかなんて考える余裕もなかった。  甲高い悲鳴が上がり、眼の前の風景がゆっくりと視界に映り込む。  なんとか踏みとどまった僕の眼の前に、白線の向こう側に倒れ込む蒼いスーツの男と目が合った。  それは僕を苦しめた《林 幹生》が人間だった頃の最後の姿だった… 『まぁ、少しばかり、他の人より運がなかっただけの話しかな?』などと言うふざけた声が頭の中で木霊した… ✩.*˚  なんともふざけた話しだ…  そんな話しが通るはずもなく、あのホシは精神鑑定にまわされて、心神耗弱と診断されて無罪になるのだろう。一般的な刑務所ではなく、精神科に放り込まれるのが関の山だ…  眠気と一緒に煙草の火をねじ消して喫煙所を後にした。  外は曇っていたが、それでも徹夜明けの目には外からの光は眩しい。  仮眠を取って帰ろうかとも思ったが、あの気味の悪い話しを聞いた後では当直室で中途半端に寝る気にもならなかった。  帰って、ビールでも煽って酒の力で寝る気でいた。  署の最寄りのバス停はさっきバスが出たばかりだった。  駅までは大した距離ではない。暇なご老人なら気長に次のバスを待っただろうが、そんな時間を使うくらいならさっさと帰って寝たい…  そういうわけで、仕方なく駅に向かって歩き出した。  駅というのに少し嫌な感じがしたが、例の事件があったのはここから少し先の駅で、俺とは縁のない場所だ。一晩経っているからダイヤはずれていても電車はすでに復旧しているだろう。  駅に着くと、いつもと変わらない風景だった。  人が死んだことなんてとっくになかったことにされていた。  体を巡る血液にも似た重要な移動手段を、たった一人の命程度で長時間にわたって止めるわけにはいかないのだ…  スマホを翳して改札を抜け、一定間隔を置いて訪れる正確な電車に乗った。  窓の外の面白くもない風景を眺め、時折窓に映るくたびれた自分の姿に嫌気が差した。  電車の女声のアナウンスは無機質で抑揚も可愛げもなく用事だけを告げる。  確かにこの代わり映えもしない場所には幻ぐらい求めてしまうのかも知れない…  停まらない駅を通過する時に、電車はわずかにスピードを緩めた。  その時見たものはきっと幻だったはずだ…  洋装を意識したような和服にフェルト帽を被った男が、口元に笑みを浮かべ、杖を持って電車を見送っていたなんて…一体誰が信じると言うのだろう…
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