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✩.*˚
「…何だよ?」
昼飯の白身フライ弁当が悪かったのか、夕方に食った卵の惣菜パンが悪かったのか…
便所に居を構えているとスマホが鳴った。
便所で電話に出るのは気が引けるが、今すぐ出ないと後々面倒くさい…
「後藤さん、今日当直ですよね?どこにいるんですか?」と、うるさい後輩が俺の居場所を確認した。
「署内の便所だよ。腹下してんだ。用は何だ?急ぎか?」
「事件ですよ。目撃者によると、駅でホームにいた男性が他の男性に引き倒されて電車で轢死したそうです。
犯人はもう捕まっていて、今から現行犯で連行されるので、調書を取ってくれって連絡がありました。もう到着するみたいなんで早めに戻ってきてくださいよ!」
うるさい後輩は一方的にそこまで言うと余裕なく電話を切りやがった…
何だよ?ほぼ解決してるようなもんじゃねぇかよ?俺要るか?
あらかた悪いもんは出し切ったが、鈍い痛みが腹の奥にまとわりつくような不快感を残していた。空になった腹の中で虫が蠢いているのでは無いかとさえ錯覚する不快感だ。
それに加えて嫌な事件と来たもんだ…
まぁ、救いは目撃者もいて簡単な事件だってことだろう。
またいつ便所に逆戻りするか分からない。とりあえず納まっているうちに終わってくれと祈るしかなかった…
ズボンを釣りあげて、ゆるくなったベルトの穴を一つずらし、世話になった場所を後にした。
「あ、やっと戻ってきた」と、刑事課のデスクに戻った俺を見つけて、口うるさい後輩はやはり口を動かした。
酒井は母親の小言のように口うるさい。懐いてるっちゃそうなんだろうが、最近の若者は忖度しない代わりに遠慮もない。同じ警察学校を出ているはずなのに俺の時代とは大違いだ…
掃除が行き届いていない変色したシャッターの隙間から赤い回転灯の光が見えた。小汚いシャッターの隙間を広げて署のエントランスを見下ろした。
パトカーが数台連なって裏に回る。どうやらホシが到着したようだ。
机の引き出しから常備薬になっている正露丸を出して口に含み、机に放り出したままの冷めて油の浮いた珈琲で丸薬を流し込んだ。
不意に、内線の呼び出し音が人の少ないオフィスに流れた。薬を飲んでいた俺の代わりに、1つ目のコールで酒井が出た。
「はい…はい…わかりました。後藤警部とすぐ向かいます…え?あぁ、そうですか。多分大丈夫ですよ、後藤さんいますし…」
電話の向こう側の声は聞こえないが、酒井が内線を耳に当てながら俺の方にチラチラと視線をよこすのが気になった。
「なんか、例の犯人。パトカーの中でもずっとわけのわからない事ばかり言ってるみたいで、薬物検査もするそうです。抵抗はしないそうなんで、先に尿取ってから取調室に連れて来るそうです」
「了解…」
面倒くさそうなお鉢が回ってきたもんだ…
まぁ、相手がクスリをやっているような人間であれば急に暴れたりする可能性もあるから、先に連絡をくれたのだろう。
まだ鈍い痛みの残った腹を擦りながら、微妙な時間を潰そうと、机に出しっぱなしになっていた半分食べ残していたフルーツ味のカロリーメイトをつまんだ。
「またそんなもの食べて…またお腹下しますよ」と、俺の意地汚い行為を指摘して、酒井は眉根を寄せていた。
✩.*˚
取調室に先に通されていた犯人の印象はどこにでも居るサラリーマンだ。
少しよれたシャツに、型くずれしたネクタイ。薄い生地の背広はいかにも安物で役職などもあるようには見えない。病的で神経質そうな印象を受けるのは、不健康そうな痩せた頬と、休み無く小刻みに揺れ続ける右足のせいだろう。
外が暗いせいか、部屋を照らすLEDの灯りが、殺風景な部屋の中でその男の姿をやけにくっきりと浮かび上がらせていた。
なんというか…限りなく幸薄そうな印象の男だ…
「どうも」と挨拶して彼の向かいのパイプ椅子に座った。
相手の返事はなく、椅子を引く時の音と振動でビクリと身体を震わせたのみだった。
取り調べの机とは別に調書を作る机には酒井が座っている。
酒井は記録係、俺は話を聞き出す係だ。
現場の警邏隊のまとめた内容を引き継いだバインダーを確認のために復唱した。
それまで大人しく話を聞いていた男だったが、人を殺めた部分に話が及ぶといきなりカッと見開いた目を俺に向けた。
震える薄い唇がわなないて初めて彼の方から発した言葉に耳を疑った。
「ち、違います…違う…僕が先に飛び込んだんだ…なにかの間違いだ…」
「は?」何だって?
急に湧いてでた話に耳を疑って酒井に視線を向けた。
酒井の方も記録の手を止めてポカンと間の抜けた顔をしている。
そんな微妙な空気の中、彼だけは必死に自身の無実を訴えようとしていた。
「僕が先だ…」と訴える男の様子からは鬼気迫る物があり、嘘を言ってるようには見えない。
「あの男…あいつのせいだ…あいつだ…」と一人ブツブツ呟く目は血走っていて何を見ているのか分からない。
とりあえず、落ち着かせるつもりで男に「何があったか話してよ」と話を促した。
取り調べは相手に喋らせるのが仕事だ。それが例え事件と関わりないことでも、相手を信用させるために必要な会話なら無駄ではない。
彼は血走った目で俺を見ると、浅く腰を降ろした椅子を貧乏ゆすりでガタガタと鳴らしながら口を開いた。
「信じられないでしょうが…」と語りだした男は薄気味悪い怪談話を俺に聞かせた…
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