御手を拝借

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✩.*˚  スタートラインのような白線を踏み越えて、高速でホームを駆け抜けようとする鉄の塊に身を投げた。  それで僕の命は終わったかに思えた…  強い衝撃を覚悟しながら目を閉じた僕の耳に、悲鳴とは違う、随分ゆっくりとした男の声が届いた。 「これはこれは…随分思い切ったことをしなさる…」  その声は僕の行動を呆れるような、それでいて小馬鹿にするような響きがあった。はたまた、この愚かな行動を責めているのかも知れない。  声の聞こえた次の瞬間、ズドン、と右半身を衝撃と痛みが襲った。  それは命を左右するほどのものではなく、まるで手を着かずに転んだ時のような程度の衝撃だった。  恐る恐る目を開けた…  僕は…飛び越えたはずの白線の内側で転んでいた…  困惑する僕の耳に、乾いた拍手のような音とさっき聞こえた声が重なった。 「君。そう、君だよ」  カツン、カツン、と小気味よくホームに響く足音。  和服とは少し違う。明治期の衣装とでも言うのだろうか?  まだ洋装というものがこの国に馴染んでいなかった時代の衣装を思わせる、中途半端な装いの不思議な姿の男は、軍靴のようなブーツの底で床を打ち鳴らしながら、右手に持った洒落たステッキをご機嫌に振り回していた。  その姿がやけにくっきりとしていて気味が悪い…  そこでやっと気づいた…  このホームの中で、僕と彼にしか色がないことに…  動いているのも僕達だけだ…  周りはみんな止まっている。線路を駆け抜けようとしていた鉄の塊さえ動きを止めていた。 「何で」と疑問を口にしようとした僕に、男はステッキで遊んでいた手の指先を口元に運んで僕に合図を送った。  人差し指を唇に添えるその動作は僕の発言を拒否していた。  ホームのタイルを叩く音は僕の眼の前で止まった。袴が揺れて、彼は僕の前に腰を降ろした男は、ステッキを持ったままの手で黒いフェルト帽を少しずらすと僕の顔を覗き込んだ。  フェルト帽の下から覗いた顔は息を呑むほど整ったきれいな造りだが、その顔は間違いなく人間の男性の造形をしていた。それがまたどこか不気味に見えた。 「久しぶりのお客さんだ。ようこそ、あたしの《領域(テリトリー)》に」  ふふ、と吐息のような笑みが漏れ、唇の両端が中央を置いてけぼりにするように釣り上がる。そのきれいな顔の歪みは妖怪じみていた。背筋に冷たいものが走った。  なぜか分からないが、この男の言う事を聞かなければいけないような気がしていた。 「そんなに構えますな。君は随分早まったことをしようとしていたじゃないか?」と、彼は僕が電車に飛び込もうとしたことを指摘した。 「あぁ、勘違いしないでおくれよ。あたしは君の命なんて、これっぽっちも惜しくないんだ。 でもねぇ…その膨らみすぎた《憎悪》には少しばかり興味があるのでね。 もしかしたら、あたしの仕事のお手伝いをしてもらえると思って、無粋だけど声をかけたのさ」 「…《仕事》?《手伝い》?」何を言っているのだろう?  いきなり現れて、意味不明なことをペラペラと語る男は僕の反芻した言葉を目ざとく拾った。 「おや?興味あるかい?」と言った男は笑ってゆっくりと立ち上がった。  眼の前で揺れた袴の裾がプリーツスカートのように広がると、つま先は反対を向いた。 「それだけ思い切ったことができるんだから、もう怖いもんなんて無いでしょう?」と肩越しに呟いて、彼は着いて来いというように時間の止まったようなホームを歩き初めた。  ブーツの音とステッキのリズムがホームのタイルをご機嫌に打った。  その背を追うようにノロノロと重い身体を起こして立ち上がった。  この男が何なのか分からないが、僕は死ぬのに失敗したらしい。  それなら、この《死神》のような気持ち悪い男の思惑に乗ってみるのもいいと思った。  どうせ、人間、死ぬ以上のことも無いんだ…  緩慢に後を追ってくる僕を肩越しに見やって、彼は悪魔みたいに口元だけで笑い、黒いフェルト帽に手を添えて表情を隠した。  カツン、カツン、と響く靴音に続くと、見慣れた駅のホームに見慣れない扉があるのに気付いた。  ステンドグラスの窓のある古びた木でできた扉は、経年劣化で手に入れた滑らかな艶を含んで暗い色で光っていた。その姿が駅のホームでは浮いて見えた。  使い古された様子のドアノブはメッキが剥げて少し緑を含んでいた。男は迷わずにそのドアノブに手を掛けて回した。  軋む音を立てて開いたドアの向こうは暗く見えなかったが、男は当たり前のようにその隙間に身体を滑り込ませてドアをくぐった。  置いていかれないように、慌ててわずかに開いたドアを掴んで中に身体を押し込んだ。
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