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作る側としてはそれでいいのだろうかと立ち止まることも大事なのではないのか?
私も書き始めてすぐに、韓国のとある会社の編集者を名乗る方から作品の打診を受けたことがある。
新しい会社を立ち上げるのに、作家を募集しているという。
ただ、韓国という国で、どんな風に扱われるのかもわからないし、ドラマの作り方などにおいて作家がとてつもなく追い込まれている場面をテレビで視聴し疑問を持っていたのでお断りさせていただいた経緯がある。
その後、その会社は立ち上がることはなかった。騙されたのかなと思ったが、ちゃんと断ったし、単に人が集まらなかっただけかもしれないと思うようにはしている。
売れなくなりますよ?
仕事がなくなりますよ?
こんな常套句はハラスメントの一つであり、言葉が出たなら、そこで、アーこの人とは縁がなかったのだなと手を切る勇気も必要ではないのかな?と改めて思ってしまった。
制作側は非を認めてはいないようだが、脚本家も変わったりしたと聞く。彼らは自分たちを正当化しているようにしか見えないという感じを受けた。
一つ、警告しておく。
京都アニメーション放火殺人、死刑を判決された青葉被告と同じようなことを繰り返す輩が出てくる可能性を彼らは作り上げたと、私は示唆する。
それは、いまではないのかもしれない、何十年後かもしれない。
私はあの事件を起こした被告を、自称と名乗っても、作家だと言い放った人を許せない!
でも?と冷静になって思うところがある。
なぜ京アニだったのか?東京にたくさんあるのに、自分の作品が盗まれたと思わせることが満身の中に芽生えたということを彼もまた訴えて犯行に走った経緯があるではないか?それを考えた時、思いを踏みにじられた人間が何かを起こすというのは、ずーっと繰り返されてきた負の連鎖だということを考えていただきたい。
時代は繰り返すのではなくて、そういう発想を持った者たちが年を得て湧き出てくる、それを作り出しているものは何なのか?物を作る立場の者たちであればこそ、今何が起きたのかということを改めて考え、この先の再発防止のため、ここで断ち切っていただきたいものだ。
この先、これから先、若い人がいなくなった日本で起きるのは何だろうと思うと怖いものがある・・・。
考えたくもないが、警察介入はもっとできなくなっていくだろう。
救急車は呼んでも運転する人がいなくて来なくなる。
災害は、備えていない人が悪いという風潮になっていく。
SOSを道に書いても自衛隊は来ない。医者も来ない。
物資は空から落ちてくると天を仰いでも来ることはない。
寒さで死に、餓死していく人達の隣に座って、まだこの国は助けてくれるとじっと待っている年寄りたち。
ぞっとする。
その年寄りになっていく自分が垣間見えるようなきがして……。
それでも、自国のことなのに、遠くの話と金を蓄えた政治家だけが太っていく。
そんな日本。
選挙のたびに、日本を変えると大声で訴えるが変えようとしても変わらなかった日本。
確かに技術だけは世界一のブランドを作り出したのかもしれないが、それも少子化によって立たれていくのだ、伝統継承者を引き継ぐものが外国の人であるように。
多分この先も変わることはないだろう。
―― 私が死ぬまでは。
自分も弱く、落ち込むと死というものへ引きずり込まれそうになる。
子宮をとった時も、脳梗塞になりかけた時も、その後遺症でだんだんと進行していく痴ほうのようなものでヒト、モノが分からなくなった時も。
何度も死のうと思い踏みとどまったのは、せっかく伸びた寿命を自分から切り離すのはもったいないと思ったからだった。
生きたのだから何が何でも生きてやると思いとどまったからだ。
昨年末から、胸を痛めることが続き、それに加え、今の自分が重なり、「なんて無力なんだろう?」と思ったとき、どんどんと死神は足を引っ張り始める。
「こんな思いをするくらいならいっそ」と思うことはだれしもあると思う。でもそこで踏ん張れるかどうかは自分だけだというのも、みんなが知って、わかっている。何かを決めるのは他人ではなく自分自身、それも誰しもわかっている。
左右に分かれた分岐点でどちらに足を向け、歩き出すのか?
それは自分だけしかわからないことだ。
そして作家さんがその道を選んだのも自分自身であるということは否めない。
死を選んだ人を称賛する気にはなれない。
ただ作家さんが思っていたことを受け継いでいかなければいけないことも心しておきたい。
私たち、プロでも、アマチュアでも、小説を作るという熱を持った者たちは心しているはずだ。作ったものは自分の分身であり子供だ。だから、ぞんざいに扱われたくはないし、自分の目標に向かって書き続けていることに何物も代えがたい時間を使い、思いを書き綴ってきたことは誰にも言わせない自信がある。
金持ちになりたいなどとは今更思わない。
健康であれば生きていけるし、死ぬ時まで迷惑をかけずに済む。
幸せは、こうして自分の思いを書き残せること。
一人でも共感してくれる人がいてくれればそれが私の幸せで。何もない毎日の繰り返しに、生きていてよかったと思える日々の幸せがあるだけでいいと思う今日この頃。
それがずっと続いてくれることをただ祈るばかりだ。
今年、この国、世界はどうなるのか?
それは未来、明日にならなければわからない。
だから過去を教訓として備えなければならない。
災害にも、日々の生活にも。
拝読ありがとうございました。
了
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