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がくっと頬杖から顎が滑り落ちて、守斗は目を覚ました。周囲をちらりと見る。
世界文学の講義中に、居眠りをしてしまったようだ。ちょうど、作品を鑑賞しているのか、みんな階段教室のロールスクリーンに映った映画を見ていた。
よかった。イケメン優等生で通っている自分の、居眠り顔を誰かに見られずにすんだようだ。
守斗はぼんやりと画面を眺める。どうもフランス人のカップルが、愛について言い争っているようだ。
正直、一般教養で仕方なく取っている、文学の授業は苦手だ。答えがひとつじゃない。守斗は経済学部だし、客観的に確率が想定できて、答えがはっきりしているものが好きだった。
(……でも、恋愛は予想どおりに全然いかないんだよな。面倒くせ……)
さっき見ていた夢のことを思い出す。
子供のころの夢なんて見てしまったのは、授業前にここ数ヶ月つきあっていた彼女に別れを切り出されたせいだ。
計算でいけば、自分はモテるはずなのだ。
声高に言うことはないが、自分は人生の早い段階からずっと頑張っている。小学校のころから女子がいやがることなどはしないようにして、クラスでどういう男子が人気なのかをずっと観察していた。
成績だって上の下くらいをずっとキープしているし、筋トレも欠かさない。男臭くならない程度の細マッチョを維持しているし、茶色く染めたウエーブがかった髪も、二ヶ月に一回は美容院で整えている。
おかげで、告白される回数はそれなりだ。
(だけど、続かないんだよな)
こんなに彼女の好みに合わせてるのになんでだよ。
なんでもかんでも合わせてるのがいけないんじゃないの。そういう反論があるのは認める。
でも、自分のことばかり言っていつもケンカになっていた、自分の親たちを見ていたから、どう考えても恋愛で自分を出すべきじゃないという気持ちが強いのだ。
「──くん、豆塚くん」
肩を叩かれて、守斗は我に返る。
「出欠シート、前に回して」
後ろの席の女子が、小さな紙片を渡してきた。授業の出欠の確認代わりに、提出するシートだ。
「あ、ごめん」
シートを預かると、自分の手元にもあるシートをちらりと見た。
上に小さく、「今日見た映画の感想を書いてください」と書いてある。
最後に女が銃で自分を撃とうとしていたことしか覚えていない。まあ、何か書いておけば単位を落としはしないだろう。守斗はさらさらと書きつけた。
『どうして恋は計算どおりにはいかないんでしょうか』
提出しようと前を見ると、前の席まで何人か空いていた。教室の階段を下りて、前の席にいる猫背のもさっとした男に近づく。
「出欠シートだけど」
守斗が話しかけてもそれに気づく様子もなく、前の青年は分厚い本を読んでいた。授業中からずっと、本を読んでいたのだろうか。先生の目の前なのに。
「あのさあ」
守斗はその男の本の前に、出欠シートをちらつかせた。
読書を邪魔されて不快そうに、彼は顔を上げる。
(きれいな顔してるな)
長い前髪に隠れている黒目がちのつぶらな瞳に、整った鼻筋。もっさりとした髪型からは予想外だった。
「出欠シート、出しておくけど」
そう言った守斗に、彼は「ありがとう」と掠れた声で呟くと、机の上に置き去りの出欠シートを渡してきた。すぐに視線が本に戻っていく。
(ずっと本読んでたみたいだけど、名前、ちゃんと書いてんのか?)
そう思ってちらりとシートを眺めると、びっしりと細かい字で感想が書かれている。本に夢中のようだけど、授業は聞いていたのだろうか。
(秋田……弓弦、ゆみ、なんて読むんだろ)
名前を確認すると、教壇で暇そうに待っていた、助手らしい大学院生に手渡した。
大学院生は手持ち無沙汰そうに手で鍵をいじって、困ったような視線を秋田の方にやっていた。それにつられて、守斗も秋田の方に視線をやる。
(あいつ……、何しに大学に来てんだよ)
彼はさっきの本を読み終えたのか、違う本を手にしていた。
「あーえーと、ここ次の時間は閉めるらしいから、外で読んだら?」
そばに寄って声をかけると、ぼそりと「ありがとう」と彼はまた上の空で呟いて、立ち上がった。視線は本から離さないままだ。
危ないな、などと思っていると、立ち上がった彼は足下に階段があるのに気づかずに、早速つまづきそうになった。守斗は思わずよろけた秋田のリュックサックをつかむ。体重に引っぱられて、つかんだ左腕が痛い。
「ちょっと! 危ないだろ、読みながら歩くなんて!」
思わず大きな声が出てしまう。守斗も痛かったが、秋田もそれなりに衝撃があったはずだ。
彼はびっくりしたように守斗を見る。初めて長い前髪に隠れていた目と目が合った。
「あ、ありがとう……すみません」
(え?)
彼ははにかんだ。春の、咲き始めの花のような、控えめな笑顔だった。守斗はどきりとする。
そういえば、こんなふうに笑顔と一緒に、礼を言われるのなんていつぶりだろう。
(なんだろう、嬉しい)
「気をつけろよ」
「うん」
守斗はちらりと大学院生の方に目をやった。だいぶ先ほどから、教室を出たそうにしている。秋田の方に向き直った。
「次、授業ある?」
「ううん。五限まで空き」
「じゃあ、十号館前のベンチのとこまで送ってってやる。そしたら次の授業まで本読めるだろ」
守斗はつかんでいた秋田のリュックサックを引っぱった。とりあえずここから出した方がいい。笑顔が返ってきた。
「ありがとう」
ひたすら本を読んでいる彼を引きずって、十号館に向かう。引っぱっているリュックサックが予想外に重かったのは、全部本が入っているのか。
(しょうがないやつだなあ)
銀杏の木にぶつかりそうになったところを強引に方向転換させて、なんとかベンチにたどり着かせる。
(早っ)
隣に座らせた秋田は、すぐに一冊読み終わった様子だった。リュックサックの中に一冊しまったタイミングで、彼は守斗に微笑んだ。
「ありがとうね!」
どうしていいか戸惑う。
こんなふうに誰かの笑顔を一日の中でこんなに見せられた日が、果たして過去にあっただろうか。
守斗は秋田の顔を眺めて、彼に尋ねた。
「君、名前は?」
「秋田弓弦。文学部二年生」
「あー、ゆづるか」
出欠シートでは名前の読み方がわからなかった。確認のつもりで、守斗は思わず声に出す。
今まで見たことがないと思ったが、学部が違うせいか。
「君は?」
「豆塚守斗。経済学部二年だよ」
「もりとくん、かあ」
秋田が自分の名前を、大切そうにささやいた。子供が初めてもらった飴を、丁寧に口の中で転がしていくみたいに。
(あ、)
彼が自分の名前を呼んだのは、自分が彼の名前を呼んだからだろう。名前を呼び捨てにするつもりはなかったのだが。
それなのにそんなふうに呼ばれるのは久し振りで、まるで親しい友達みたいで、守斗はドキドキした。
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