ライバルは、九官鳥

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* * * 「ハア、ハア、ハア――」  吐いた息は白いのに、汗がとめどなく流れた。  額から噴き出した水滴が、頬を伝って首筋に流れ落ちる。 「もうだめ、ちょっと、休憩、休憩」  執筆中と同じように、落ちてくる眼鏡を持ち上げながら、雅人はマイペースで走る。  運動音痴の私を気遣う様子はない。おそらく、これでも手加減してくれているのだろう。  多分、彼だけならもっと速く走れるはず。  私がいつも近くに居るので、一人で走る時間がない。そう考えると、申し訳ない気持ちになる。 「ああ、また、これか……」  それは、唐突に始まった。  足から伝わる振動で、体がブルブルと震え始めた。地面から上ってくる振動が、体全体を震わせる。特に、背中と両腕が激しく痙攣している。  ランニングが嫌いな最大の理由は、これだ。  走り出してしばらくすると、スマホのバイブレーションのように小刻みな振動に襲われるのだった。  散歩では、こうはならない。激しい運動に、体が拒絶反応を起こしているようだ。  我慢、我慢。  これは、彼の気分転換だ。マンションに戻ったら、スムーズに執筆に入れるようにしてあげたい。  足手まといになってはいけない。  唇をかみしめ、足に力を込めて、走るペースを上げた。 * * *  原稿は、三日後に仕上がった。予定よりも一日遅れだった。 「今、メールで送りました。ご確認ください」  雅人は、電話口で編集者に頭を下げていた。  声しか聞こえないのに頭を下げるあたりが、彼の誠実さを表していた。  私は、その様子を微笑ましく見守った。  小説が完成しないと、収入が途絶える。  この高級マンションを出て行かなければならない。  そして、私も働かなければならない。  日銭を稼いで、安いアパートに住むような生活はしたくない。  仕事をせずに、雅人の傍らに居られるのは、彼が人気の小説家だからだ。 「ふう、一区切りついたぞ!」  雅人は、両手を上げて大きく伸びをした。そのまま、体を左右に動かし、ストレッチをする。 「オツカレ、マサト、オツカレ」  私も「お疲れ様」と言おうとしたのに、またもや、ピーチに先を越された。私は鳥かごを睨んだ。しかし、ピーチは素知らぬ顔でそっぽを向いた。 「旅行にでも行くか。そうだな……温泉があるところがいいな。原稿の直し程度なら、旅館でもできるし」 「いいね、いいね。賛成、賛成!!」  雅人はパソコンを開いて、旅行先を調べ始めた。私は、彼が座る椅子の背後に立って、一緒に吟味をした。 「ここ、ここがいい! カップルでゆっくり入れる貸し切り露天風呂!」 * * *  翌日から、私たちは、一泊二日の小旅行に出発した。  自宅マンションから車で数時間の距離にある、山奥の温泉地。雅人が予約したのは、有名な老舗旅館だった。  彼が運転する車の中で、私はしゃべりっぱなしだった。ドラマの話や、今朝のテレビで見たニュースの話など。  寡黙な彼は、相変わらず言葉数が少ないけれど、機嫌が良さそうに笑顔を浮かべていた。  雅人は、時々うなずく程度で、運転に集中していた。  事故でも起こしてしまったら、大問題だ。  私も困るし、多くの読者も悲しむ。  そんな感じで、あっという間に旅館に到着した。 「好きなだけ露天風呂にお入りください。貸し切りで承っております」  旅館の女将が丁寧に説明してくれた。 「晩御飯の前に、温泉に入る時間ありますか?」 「ええ、もちろんです」  雅人と私は、部屋が二つある和室に案内された。一つの部屋には、すでに布団が敷かれていた。  到着が夕方になったので、寝床の準備してくれていたのだ。  私は布団を見て、顔が熱くなるのを感じた。  彼は荷物を枕元に置くと、備え付けの浴衣に着替え始めた。  あっ、私も……。  着替え終わった彼を追いかけて、私は部屋を出た。 * * *  露天風呂は旅館の屋上にあった。  階段を上り、更衣室に入る。服を脱いでから、スライド式の扉を開くといきなり冬の寒空だった。 「ああ、寒い!」  二人で同時に同じ言葉を口にした。両手で体を抱えるようにして体温を保ちながら、小走りで露天風呂に飛び込んだ。 「熱い!」  私たちは、またもや、同じ言葉を口にしてしまった。  私は、思わず笑い出してしまった。 「あー、気持ちいい。小説を書き終えたあとの、この数日が一番、リラックスできるなあ」  雅人は、夜空を見上げて白い息を吐きながら言った。 「お疲れ様。たくさん、売れるといいね」  私も、同じように夜空を見上げた。  星が降ってきそうなほど、たくさん見えた。 「やっぱり、都会と違うね。車で数時間、移動しただけで、こんなに夜景が違うなんてびっくりだね」  こんな日がいつまでも続けばいいなと、私は心の中で密かに願った。
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