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* * *
旅行から戻ったら、雅人は次の作品に取り掛かった。
まったく、仕事熱心な人だ。
「書かない日が二日以上続くと、筆が止まる」
それは、彼の口癖だ。
ピアニストが、似たようなことを言っていたのを、テレビで見た気がする。創作を行う人には、共通した感覚なのかもしれない。
私はソファーに座り、いつものように彼の横顔を眺めていた。
大好きな彼の横顔だけれど、今日はちょっと眠いな……彼も眠そうなのを必死でこらえているようだ。
彼は眼鏡に手を掛け、外そうとした。
少し仮眠するのかな……そう思った瞬間、私は唐突に、眠りに落ちてしまった。
どのくらい眠っていたのだろう。
目が覚めると、彼はコーヒーが入ったカップを持って戻って来た。
私も作ってもらおうかと思ったけれど、やめておいた。
コーヒーは苦い。
どこが美味しいのか良く分からない。
「ちょっと、外出するか」
雅人は、スマートフォンで検索を始めた。私は立ち上がり、彼の背後から画面を確認する。
「眼鏡屋、眼鏡屋。この眼鏡、どこで買ったっけ……ここだ」
「新しい眼鏡、買うの?」
「メガネ、メガネ、マサト、メガネ」
彼は何か言おうとしたけれど、いつものように九官鳥に邪魔された。
私に全くなつかない鳥……可愛くないなあ。
* * *
駅前の眼鏡屋に到着した頃には、外は真っ暗になっていた。
雅人は夜行性なので、寝るのは遅く、起きるのも遅い。
彼の本格的な活動時間は、これからだ。小説家はみんな、こういうものなの?
私はいつも、彼より先に寝てしまう。長く起きていようと努力するのだけれども、どうしても先に寝てしまう。
そして、彼よりも後に目が覚める。だらしない彼女だと思われてないか心配。
「いらっしゃいませ。新しい眼鏡をお買い求めでしょうか?」
口ひげをたくわえたベテラン店員が、私たちを迎えた。
温和で笑顔を絶やさない、いかにも接客業といった印象が強い初老の紳士だ。
「いや、この眼鏡を修理してもらいたいんです」
「こちらで、お買い求めの眼鏡でしょうか?」
「はい」
「修理ですね。まず、状態を確認させていただきます」
執筆中も、ランニング中も、眼鏡がずり落ちるみたいだった。
確かに、修理した方がよさそう。
店員は、雅人に椅子に座るように促した。
「眼鏡、取った方がよろしいですか?」
「いいえ、そのままで結構です。お顔に合っているかも確認したいので」
私は二人の脇に立って、その様子を観察していた。
店員が、雅人の耳の辺りに両手を伸ばす。顔にフィットしているのかを確認しているのだ。
「仕事に支障が出るなら、新しい眼鏡、買ったら?」
私はアドバイスをしてみた。
返事はない。
首が動かせないので仕方がないか。
眼鏡は、雅人のトレードマークだ。こんなに眼鏡が似合う人はいない。パソコンに向かう時間が長いので、仕事上、必須のアイテムでもある。
「じゃあ、一度、眼鏡を外していただきます。専用の機械で調整して参ります」
店員が雅人の眼鏡をグイっと持ち上げた。
その時だった、私の意識がプッツリと途絶えた。
特に眠気があったわけではないのに……。
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