誘う指先

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「はい、考えてみます」  清美さんは車の方に歩き出そうとした。 「僕は歩いて帰ります」 「でも……」 「そんなに遠い距離ではありません。それに赤ちゃん、とても不安そうな顔をしています。あんな大騒ぎがあったんですからね」 「でも……」 「ほら、涙のあとが」  赤ん坊の頬の涙を拭いた。なんとも柔らかく弾力性のある瑞々しい肌だ。赤ん坊という言葉に反して真っ白な肌をしている。さすが清美さんの遺伝子を継いでいる赤ん坊だけある。父親とは似ても似つかない美しい肌だ。  僕は旦那さんが振り上げていた手を思い出した。ガサガサに荒れ果てたヤスリのような指先だった。ささくれも出来ていた。手の甲には火傷の跡もあった。指には傷跡もあった。手入れを怠っている証拠だ。男だろうが許される事ではない。そんな男だから清美さんの手の偉大さに気付かないのだ。 「ゆっくり可愛がってあげてください」  僕は歩き出した。 「先生、本当に今日はありがとうございました」  僕は振り向かなかった。きっと今頃清美さんは深々とお辞儀をしているのだろう。そんな事はどうでも良いから早く家に入って欲しい。そして赤ん坊を抱きしめてやって欲しい。  あの瑞々しい赤ん坊の肌に清美さんの滑らかな指が触れる。どんなハレーションが起きるのだろうか。水しぶきが飛び散るのか、ミルククラウンのように肌が波打つのだろうか。それとも両者は溶け合いひとつに混ざり合うのか。  あっという間に病院に辿り着いていた。清美さんの指は距離も時間も全てを超越させてくれる。あの指を守る事ができて良かった。僕の使命は果たされたのだ。
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