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さようなら、を習う機会が無かった。
その言葉を習う前に大切な物は剥がれ落ちていて、多種多様な赤色が眼前を覆い尽くしていた。火炎と誰の物かも分からない血液。ここで死ぬのだと子供ながらに漫然と思った。
「食べられる前に逃げろや、チビっ子」
だからさようならの代わりにあなたの言葉を学んで育ちたいと心から思った。屍になる前に一度でもあなたの言葉を食べてみたいと、そう思った。
「寝落ちしないで下さい」
「ふがっ!? あっと、失礼したッス」
海辺の小さな街。潮風が鼻腔を擽り、新鮮な海鮮物が特産品のこの街で私は『バイト』をする。
「えっと、天狗のカエデと申しますッス」
「もう挨拶は済ませたでしょう? ……本当に貴方に連絡役が務まるのか不安が尽きませんよ」
公園のベンチ、ゴスロリの服装に身を包んだ白髪の少女が座っている。確か名前はシルバニだったか。私と同じ龍神会の従業員で、担当は緑閃龍だった筈だ。私は手持ち鞄から鉛筆と手帳を取り出し、報告書を書き連ねる。空を高速で飛べる天狗に任せられた、重要なバイトだ。龍涙に関する純血の龍への経過観察は詳細に書かなければならない。彼女の圧と緊張で手汗が滲み出てくる。
「前任者は呆気なく食べられてしまいましたから、本当によろしくお願いしますね」
「ちなみに緑閃龍の方では犠牲者は……」
「私を除いて八人。その中の一人は友達だったわ」
悲愴の表情で俯く彼女に、私は地雷を思いっきり踏み抜いてしまったのだと後悔に駆られる。龍の凶暴性は現代でも健在だ。ケンジンが優しすぎるから感覚が麻痺してしまっていた。
「ごめんなさい。私は……」
「いいのよ、こんな仕事だもの。こんなのはもう慣れっこよ」
レースの日傘をクルクルと回し、溜息をつくシルバニは微笑みながら目を細める。それが何だか、自分は鋼の心を持っているのだと強がっているように見えて、思わず目を逸らしてしまう。
「……龍涙は採集出来ましたか?」
「いえ、全く。半年は観察を続けていますが、あれが涙を流す生物だとは到底思えません」
緑閃龍も成果はゼロだった。
ここに来るまでに二人の報告者と会話をしたが、やはり成果は得られなかった。混血の龍は性格が柔和になりやすい特徴があるが、それでは龍涙は得られない。しかし純血の龍の傍にいるというのは、一秒事にロシアンルーレットを繰り返しているような物だ。いつその牙が向けられるのか、血液を啜られるのか、全てが龍の裁量に委ねられてしまう。実力が無ければ淘汰されるのが厳しい現実だ。
「やっぱり、私が龍神会に龍を遠くから観察するように説得するッスよ! こんなのあんまりッス……」
「駄目よ。龍涙は揮発性が著しく高くて、三秒もあれば蒸発してしまう。故に近くで様子を見届けなければならない。研修で習ったでしょう?」
「でも、でも……」
「……カエデさんは、優しいのね」
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