満月を待つ

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満月を待つ

 悲しくも哲夫は藩士の屋敷の地下牢に捕らえられ監禁された。房江は無事に東北の秋田までたどり着いた。船の中で、房江は哲夫の事を想うと辛くて、辛くてたまらなかった。涙に溢れていた。女将らも、房江まで捕らえようとはしなかった。哲夫だけ美津子と婚姻させればよかったからだ。  哲夫は美津子と婚姻するように強要されていた。美津子は哲夫との愛しており、婚姻を強く望んでいたため、拷問しようとする者達を制止した。 「やめなさい、哲夫様には指一本触れたら駄目です」 「わかりました。お嬢様」  しかし、房江を想う事に変わりはなかった。哲夫はいつまでも想い続けた。 (美津子さん、待っていてください、必ず、必ず向かいに行きます……)  哲夫の想いは悲しく響いたが、届かなかった。 美津子は勝気な性格ではあったが、根は優しかったので、哲夫に危害を加えてまで婚姻するつもりはなかった。  そして、哲夫が自分に心変わりするだろうと思い、毎日のように哲夫の元へ向かった。 「哲夫さん、もう、あの女の事は忘れてください」 「申し訳ありません、それは出来ません。お願いですから、ここから出していただけませんか……」 「いやよ。あの女を忘れるまでここにいて」 「ううう」  美津子の両親は地下の牢獄から出そうとはしなかった。あまりに哲夫の辛い姿を見ていると美津子も辛かったのだ。  何とか出してもらえるように、美津子は父親にお願いしたのだが、出来ない事であったのだった。藩士の名誉を傷つけたという気持ちが強かったからだ。  美津子は哲夫が振り向いてくれるのを、待ち続けた。  待っていたのは美津子だけではなかった。当然ながら、房江も哲夫の事が忘れることはありえない事であったので、すぐさま、秋田から、京へ戻った。それは置屋の近くの赤い橋で満月の夜に待ち続けるためであった。  美津子は以前からこの事は知っていたので気づいてはいたが、哲夫が行けるはずがなかったので、ほっておいていたのだ。冷たい仕打ちであったが、美津子からすれば仕方のない事であった。  置屋から離れたところに住み、満月の夜になると必ず赤い橋へと向かい待ち続けた。それは儚くとも悲しいものであった。  待てど暮らせど哲夫は赤い橋へ来ることがなかった。それでも、満月の夜に一目をはばかるため、丑の刻に会っていた時間に必ず向かった。  いつまでも、いつまでも待ち続けた。悲しくも待ち続けたのだった。  哲夫はあまりの辛さに日々日々衰弱していった。そして、病になり地下牢からは出してもらうことになったが、必死の美津子の看病も空しく息を引き取った。最後まで、房江の名前を呼んでいたのだった。  その事は房江が知るはずもなかったのだ。しかし、房江は強かったいつの日か必ず満月の夜に赤い橋の上に哲夫の姿が見えるのを信じていた。  それは何年経とうと想い続けた。そして待ち続けた。哲夫を待ち続けた。  話は現代に戻る。房江は既に高齢化しており認知症もあった。しかし、形見にしていた、手編みの幸子の手袋と哲夫だけは忘れる事はなかった。幸せだったあの頃を忘れる事はなかったのだった。  老人ホームでは、房江はいつも落ち着かなかった。 「そろそろ、おいとまさせていただきます」 「何を言っているの、房江ちゃんの家はこの老人ホームでしょう。何度いわせたらすむの」 「そうね、房江ちゃんのボケにはこっちもいい加減疲れるわ。顔もしわくちゃで腰も曲がって足腰もままならないじゃない」 「私達もあのようにだけはなりたくないわね」 「そうね」  そして、房江は突然に忽然と老人ホームから姿を消した。赤い橋を探し始めた。しかし、そこには赤い橋はなかった。それでも探し続けた。  老人ホームは騒然となり、捜索が始まった。 「房江ちゃんがいないわよ」 「どこに行ったのもう。いつまでも手をやかせるんだから」 「それより、早く探さないと」  房江は老人ホームの近くの小さな橋の上で息絶えていた。手には手編みの手袋をしっかりと手に持っていた。  橋は赤くはなかった。月はでていなかった。 (房江さん、お待たせしました) (哲夫さん、やっと来てくれたのですね) (満月がきれいですね。まるで、満月の光が房江さんの瞳に写っていますよ。あの時のままです) (哲夫さん……) (房江さん……)  房江は息絶えていたが、安らかな笑みを浮かべていた。  完
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