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契り
ある日、房江は街で食材の買い出しを命じられていた。頼まれた物を買うと、目の前に団子を売っている店があった。そこには長い腰かけがあり、そこで房江は団子を食べる事にした。房江は幼い頃から団子というものを食べた事がなく、団子があまりにも珍しく丸くて満月のようであったので、赤い橋での出来事を想いだし見入っていた。房江は頬を薄紅色に染め上げていた。
そこに、ある女性が現れたのだ。それは哲夫の婚約者である、美津子であった。偶然の事であった。そして、房江に話しかけた。
「あら、あなた、どうして、団子を見つめているの?そんなに団子が珍しいのかしら?」
「はい、でも、この団子が愛しくてたまらなく思ったのです」
「どうして、そんなに団子が愛しいのかしら」
「この団子は満月のように見えるからです」
「あなたも面白い子ね。私が買ってあげるわ」
「いえ、そのような事はできません。それでは失礼いたします」
房江はその場を離れ、置屋へ戻っていった。それは偶然の出来事ではなかった。何かしらの運命的な出会いでもあったのだ。
その日の事だった。哲夫の婚約者である美津子が、置屋に突然に来たのだった。哲夫を驚かそうと企んだのだ。そして女将に会った。
「まあ、美津子様、突然のことで、哲夫に会いにきたのでしょうか」
「はい、哲夫様はいらっしゃいますか」
「ええ、おりますよ。哲夫。哲夫」
「どうしました。お母様」
「美津子様よ」
哲夫は動揺した。突然の訪問にそして困惑した。それにもかまいなく、美津子は話しかけた。
「哲夫様、今日は珍しい娘がおりましたの」
「それはどのような娘だったのでしょうか?」
そして、美津子は団子の店での出来事を話し始めた。哲夫はすぐに房江の事だとわかったのだ。
その日は満月の夜であった。房江はいつものように哲夫を赤い橋の上で待っていた。
哲夫は美津子が来ていたため、橋の上に行きたくとも行く事が出来なかったのだ。
いつもは丑の刻に一目につかぬように会うようになっていたが、その日に限って、房江はあまりにも満月の美しさに目を惹かれて、早い時間から橋の上で満月を見上げていたのだった。それに哲夫は気がつき寂しげに房江を見つめた。
その様子を目撃した美津子は見逃すはずがなかったのだ。美津子は感が鋭かったのだ。すぐに哲夫と房江が恋仲にある事に気づいた。しかし、確信がもてなかったので、それ以上の事を美津子は話し出す事は出来ずに、その夜は哲夫と共に過ごしたのである。哲夫は苦痛でたまらなかった。しかし、仕方がない事であった。
房江はいつまでも、いつまでも待っていても哲夫が来ない事に嘆き悲しんでいた。房江は悲しくて翌日に哲夫に話しかけた。
「哲夫様、昨日は……」
「申し訳ありません、いろいろと事情がありまして……」
「そうでしたか、それは仕方ありません」
そのやり取りを哲夫の後ろで美津子は聞いていた。房江も哲夫も美津子に気がつかなかったのだ。そして、美津子は決断した。婚姻を急ぐことを、そして、女将に提案した。
「次の満月の日までに婚姻を上げたいのですが、いかがでしょうか?」
「ありがとうございます。美津子様、しかし、何かと準備がございますので、翌々月の日にお願いできないでしょうか」
「わかりました。それは仕方ありません」
「お母さま……」
「哲夫、良かったわね」
「そうですね……でも、やはり婚姻はなんとかなりませんか」
「いえ、それはできません。あなたのためでもあるのです。わかりましたか?」
「はい……」
当時は親の反対を押し切ってまで、恋愛をすることはできなかったのである。哲夫は美津子との婚姻は到底考えられなかった。そして、ある事を決断したのだ。
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