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哲夫は翌日に美津子が帰ったので、すぐさま、房江を呼び出した。房江は慌てて、哲夫の前に来たのだ。
「どうななされましたか?哲夫様」
「私は二月後に婚約者と婚姻しないといけません」
「そんな……」
房江は言葉にならなかった。悲しくて、悲しくてたまらなかった。
「申し訳ありません。なかなか言いづらくて今まで隠しておりました」
「それでは、もう、お会いすることは出来ないのですね」
「いえ、次の満月の日に赤い橋の上に必ず来てください。私と一緒に置屋を出ましょう」
「それは許される事なのでしょうか」
「満月の灯りがきっと許してくれるでしょう」
「しばらく、考えさせてください……」
「必ず来てください。私は待っております」
房江は何も言えず、涙しながら、嬉しくとも複雑な気持ちで、自らの部屋へ帰って行った。
そして、約束した満月の夜を迎えた。房江はお世話になった宿屋に、迷惑がかかるのではと思いながら、哲夫の事を忘れようと努めたが、それは出来るはずがなかったのだ。
房江はいつも丑の刻に待っていたが、いつもより早く待っていた。すると、突然に雨が降り出した。満月が雲に隠れたのだ。雨が突然降りだした。
雨は次第に雪へと変わり、房江の黒髪に積もっていった。その様子はあまりに美しかった。房江の髪にうっすら積もった雪を拭おうとせず、房江は赤い橋で哲夫を待っていた。それは満月の夜になった。満月の夜が房江を覆っていた。
「房江さん、お待たせしました」
「哲夫様……お会いしとうございました」
房江は迷わず、哲夫の胸に飛び込んだ。哲夫も強く抱きしめたのだ。それはあたかも時がとまるようであった。
「雨が降り出したので、もう、来てくれないと思っておりました」
「私がそのような事をするとでも思ったのでしょうか。どれほど、房江さんの事が愛しくてたまらなかったことでしょう」
「でも……」
「どうしました、房江さん」
「満月は私達を許してくれるのでしょうか」
「満月がもしも許さないのなら、私達がここにいるはずはないでしょう。さあ、この赤い橋を渡って、幸せになるのです。そのためには急がないといけません。私についてきてください」
「はい」
吐く息は白く、そう、房江は小さくうなずいた。そして、奉公先の置屋を哲夫とともに後にしたのだ。
哲夫は房江の手をとり、赤い橋から走り出した。それは小川のせせらぎをかき消してしまうような勢いで走り始めた。
房江も必死に後をついていった。途中、草履の紐が切れても夢中で走ったのである。走って、走って、息もできないくらいに二人は走ったのだった。
満月は許してくれども、時は許してくれるのだろうか。
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