言えない

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 冬の澄み切った空気が、全身にのしかかるように重く、重く感じる。  重力に張り付けにされたような気だるい気分でベッドに横たわったまま、手の中にある白いバーを顔の前まで持ってきてみる。  バーの真ん中あたりに空いた長方形の小窓の中に浮かぶ、くっきりと赤い線。何度見直しても、その線が消えてなくなる事はなかった。  布団の上に腕を投げ出し、深いため息をつく。  どうしよう……。  心当たりは……当然ながら、ある。二月ぐらい前に、歩美達と一緒に飲んだ後の事だ。終電を過ぎていた事もあって、始発の電車を待つついでにと安っぽいネオンがチカチカするホテルへ入った。酔いが回っていたせいもあり、普段は間違いなく使用していたゴムを着けなかったような気がする。  何度目かのため息の後、私は意を決してスマホを手に取った。深夜にも関わらず、いつも通り二度目のコールで礼司は出てくれた。 「……もしもし。どうしたの?」 「……ごめん。急に声、聞きたくなって。寝てたよね? ごめん。迷惑だよね?」 「全然。そんな事ないよ。俺も……里穂の声が聞けて嬉しい」  半分寝ぼけたような、でも咎める様子は一切ない落ち着いた声を聴いた途端、胸が詰まった。 「仕事、どう? まだ毎日遅くまでやってるの?」 「うん、まぁね。みんなに迷惑かけないように、付いてくのがやっとってところ。里穂は? 仕事、見つかりそう?」 「うん……この間受けたところは駄目だったみたいで、今また次探してるところ」 「そっかぁ。なかなか難しいもんだな。俺だったら見た瞬間絶対採用するのに。もったいない」 「みんながみんな礼司みたいな人ばっかりならいいんだろうけど」 「逆だよ、逆。そいつらの見る目がないんだよ」  スピーカーの向こうから聞こえてくる声は、春のおひさまみたいな温かさに満ち溢れていた。でもそのせいで、私が本当に話したかった事はどんどんどんどん私の胸の奥へと深く潜り込んでいってしまう。 「ごめんね、こんな時間に電話しちゃって」 「気にしないでよ。こっちこそなかなか帰れなくて、寂しい想いさせてごめん。今の仕事が落ち着いたら一回帰れると思うからさ、それまで待ってて。電話だったら二十四時間、いつだってしてくれて構わないからさ」  結局何も言えないまま、ただただ礼司の優しさを胸いっぱいに受け止めただけで、電話を終えた。  本当は、もう三ヵ月くらい就職活動と呼べるような努力はしていない。すっかりモチベーションが冷めてしまって、だらだらと単発のアルバイトでしのいでいるだけだ。  自分の置かれた状況があまりにも情けなくて、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。  冷たさと重みを取り戻した空気から逃れるように、私は布団の中で身体を丸めた。手を当ててみても、このぺちゃんこなお腹の中に赤ちゃんがいるだなんて、さっぱり現実味が湧かなかった。
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