言えない

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 礼司とは大学三年の時に出会った。一つ上のゼミの先輩だった。 「はじめまして。内藤礼司です」  直接目を合わせようとせず、恥じらいながら挨拶した彼の様子は、未だに鮮明に思い出せる。私の容姿は他人と比べても特に優れているというわけではないはずだけど、彼にとっては一目惚れだったらしい。  それまで私がお付き合いしてきた人達に比べると、礼司は地味すぎるぐらい地味な男だった。流行に疎く、遊びにも暗い。初めてのデートにキャンパスの近くにあった大衆食堂を選び、ここのレバニラ定食が美味しいんだと無邪気に勧めてくるぐらいには、彼は女性の扱いにも無頓着だった。  でもそれまで出会ってきた誰よりも実直で、穏やかで、何より優しかった。まだ日が傾いてもいない真っ青な空の下で、口からニンニクとニラとレバーの混じった香りを漂わせながら「良かったらまた今度一緒に食事でも」と言い残して去って行く彼の背中を見ながら、結婚するならこういう人がいいんだろうな、とぼんやり思った。  それからほど無くして私たちは正式に恋人関係になり、彼の人間性そのままの、穏やかで、緩やかな愛を育んできた。付き合う前に想像した通り、順風満帆そのものとしか言いようがない関係だった。  彼が卒業し、就職するその日までは。            ※ 「合格したって」  第一志望の機械メーカーへの就職が内定したその日、礼司はわざわざ私のアパートまで直接報告しに来てくれた。 「おめでとう! これでようやくあの寮からも卒業だね!」 「うん、まぁ……」  私の心からの祝福にも、彼の顔色は冴えなかった。彼は沈痛な面持ちのまま、告げた。 「最初の三年間は、福岡の工場勤務になるらしいんだ。採用はあくまでエンジニア枠だから、三年過ぎれば東京に戻って来れるのは間違いないんだけど……」 「そう……なんだ」  そんな事しちゃ絶対駄目だ、と頭ではわかっていたのに、気づいた時には頬を涙が伝っていた。  大学でできたカップルなんて、大半がどちらかの部屋に入り浸って半同棲生活になる事がほとんどだと言うのに、彼は時々私の部屋に泊まる事はあっても、引き続き薄汚い大学の寮に住み続けていた。学生の身分であるうちは同棲みたいな事はするべきじゃないというのが彼の譲れない一線らしかった。  逆に言えば、彼が卒業しさえすれば一緒に住めるようになる。晴れて私達は今よりも長い時間を一緒に過ごせるようになるというのが私達の共通認識であり、夢でもあった。  なのに一緒に住めないどころか、遥か遠くへ行ってしまうだなんて。想像しただけで、込み上げる涙をどうしても我慢できなかった。 「ゴメン。頑張って働いて、三年と言わずできるだけ早く帰って来れるように頑張るから。夜中でも朝方でも、いつでも好きな時に電話してくれていいから。寂しい想いはさせちゃうかもしれないけど、できるだけそうさせないように努力するから」  必死に弁明する礼司の腕に抱かれながら、私はこの人を選んで本当に良かったと思った。帰って来るまで、彼を信じて待ち続けようと思った。  その時の言葉通り、遠く福岡の地で不慣れな仕事に追われながらも、私を第一に想い続けてくれている。私の仕事が上手くいかない事すら、自分に責任の一端があると負い目を感じながら。  私の恋人は、そんな人だ。
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