1 

3/7
306人が本棚に入れています
本棚に追加
/8ページ
……『あの夢』を見た。 ベッドから見上げる天井を しばらく見つめたあと、 静かに身体を起こした内野リョウは 隣で眠っている妻と幼い子供を 起こさないようにそっと 寝室の扉を開けると、廊下に出た。 時刻はまだ朝の五時前だった。 変な時間に起きたな、と思いながら 大きく息をついて 昨日切ったばかりの髪に触れながら カーテンを開けると マンションから見える大通りに 大きな運送業のトラックが 走っていく様子が見えた。 自分にとって変な時間ではあるが、 朝はもう始まっている。 もう一度寝直す気にもなれなくて リョウはランニングウェアに着替えると キャップと防寒の手袋を身に付けて 近所の公園まで走りに出ることにした。 白い息を吐き出しながら 久しぶりに見たあの夢を思う。 いつから見なくなっていたのか。 しばし考え、記憶を遡ると 妻のアリサが(あき)を出産してから 見ていない気がした。 子供の頃からリョウには 不思議な経験が多かった。 人に話すには説明の付かない 奇妙なものもあれば およそ必然から遠ざかったような めぐり合わせの場面も多い。 これは亡くなった母の家系から 受け継いだ資質だ。 母も自分と同じか それ以上の不思議な経験を 数々持っていたと 育ての親である祖父から さも日常かのように聞いていた。 祖父にはそのような経験はないのかと 幼かった頃のリョウが聞くと 「さあな。だが、すすんで話すもんでもねえだろう。お前の母親もそうだった。凛子(りんこ)もガキの頃から色々あったが、あいつは俺より特別で、人に話せばこの世に形を成す事を知っていたんだろう。お前もどうしても話すのなら、俺だけにしとけ。友達連中には言うな、絶対に。いいな?」 酒と煙草でしゃがれながら 大きな声で話す豪傑な祖父だったが その時ばかりは声を絞って リョウに言い聞かせるように答えた。 それ以来自分の見る、感じる、 形なきものに触れる事象について 滅多なことと自戒して 人に話すことはしなかった。 話したところで信じてはもらえない。 幼い心であっても、よく理解していた。 リョウの実の父親も 信じることは一度もなかった。 妻の忘れ形見となった 一人息子の話を つまらない空想や嘘と決めつけて 「気味の悪い話ばかりする」 気味の悪い子供だと言って 手元に置くことを嫌った末に 息子の身柄を引き取った祖父が 東北の甚大な震災で亡くなった時も 絶望に膝を付いたリョウに対して 遺産相続の話しかしなかった。 祖父の残した莫大な遺産を 養子縁組を済ませたリョウが 正当な遺言書と共に一身に継いだ事に 実の父だけが罵声を浴びせたことは リョウにとって、忌む話となっている。 嫌な思い出だ。 だが、それが自分の力になった。 この忌むべき記憶が この世の誰よりも尊敬していた祖父を 大いなる自然に奪われ、失った自分の これからを生きていく強さになった。 そうやって生きてきた自分が アリサとの間に 息子を授かったことに 強い幸福を感じるとともに 今再びこの夢が戻ってきた今を その意味を、知らせを ……強く危惧していた。
/8ページ

最初のコメントを投稿しよう!