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祖母は医者だった。
当時としては極めて稀だろう。従軍した事もあるよ、と、黒い染みのついた皮の鞄を見せてくれた事がある。赤十字が刻まれた、ドラマとかで見るような鞄。黒い染みを含めその真偽は不明。ウソを吐く人ではないが、大げさに言う事はあった。
真冬になると二階の窓から出入りするような量の雪が降る山奥の村に住んでいた。これも大げさに言っているのかもしれない。毎年、盆暮れは祖母の家で過ごしていたが、僕はついぞ二階から出入りした事はなかった。
「みかん、とってきて下さい」
祖母は僕に方言を使わなかった。通じないというのもそうだが、恥ずかしいのもあったのだろう。元は都会に住むお嬢様だったそうだ。
「みかんは雪の中にありますよ」
不慣れな口調で、しかも子供相手なものだから、私に対する祖母の言葉はとても固かった。祖父はそもそも静かな人だったので、僕は幼い頃、二人から嫌われていると思っていた。今考えると逆さまで、嫌われたくなかったのだろう。田舎を恥ずかしがる夫婦だった。
「はいはい、寒かったでしょう」
昼間、家の前に積もった雪の中にみかんを突っ込んでおくと夜には凍っている。
「どうぞ、おこたで食べなさい」
キンキンのみかんをお湯で軽く洗い、こたつに入って食べるのがとても好きだった。寒いところの家の中はとても温かい。いったん外で身体を冷やし、はあはあ息を吐きながらみかんを掘り出して、石油ストーブの匂いが香る家の中に舞い戻る。滑り込むようにこたつに入り、シャリシャリとみかんを齧るのだ。たまらない。
冷えた手足を温めるこたつはまるっきり骨董品で、ボウリングで倒すピンの首から下くらいの大きさの電球のようなものが朱く光るやつ。これは僕が引き取って今も現役である。朱い光が愛おしくてしょうがない。壊れたら多分泣く。
小学生の頃にこたつで寝ていて、ふくらはぎを火傷した。ぐじゅぐじゅとした低温火傷、祖母はこたつより朱い薬、所謂『アカチン』を塗ったくってくれた。それ以降この薬を見たことがない。もしかしたら日本で最後の一瓶だったのかもしれない。
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