5人が本棚に入れています
本棚に追加
田舎の小さな高校は、一学年に三クラスしかなかった。必然的に、三年間同じクラスの人間も多い。
伊崎とは、ずっと同じクラスだった。
片や、勤勉で真面目、しかし人間関係についてはクールな男。片や、おしゃべり好きで八方美人気質の男。
どう考えても合うわけがないのは、入学式のときに彼が新入生代表挨拶をした瞬間にわかった。代表ということは、入試で首席だったということである。
「伊崎雄二郎」
定型文の挨拶は、一言も覚えていないが、最後にそこだけオリジナルであるところの名前を言う声だけは、鮮明だった。声変わりは完全に終わっているはずなのに、マイクを通した声は、少しだけ掠れていた。
背が高く大人びた伊崎は、毎年四月の間と試験のときには必ず、弘也の後ろに座っていた。有岡と伊崎だから、当たり前だ。間に入る苗字の持ち主は、この学年にはいない。
これが例えば、左右どちらかに隣り合っていたとしたら、もう少し違ったのかもしれない。弘也はよく、想像した。けれど、どうしても楽しく雑談をしている光景は浮かばない。
頭の中の伊崎は、どんな話題を振っても、いつもの仏頂面、もしくは冷笑を浮かべている。大騒ぎしているクラスを眺めながら、彼がよくする表情だ。
弘也と伊崎の関係は、所詮、友達未満だ。敵視し合っているわけではないが、共通の話題もない。伊崎の方はどうかは知らないが、弘也は、それでも彼と話をしてみたいと思っていた。
話題といえば、勉強くらいのもの。テストの直前に、出そうなところを尋ねれば教えてくれる。ウィンウィン、ギブアンドテイクにはなりえない。「ここが出そう」と伊崎が応えた瞬間にチャイムが鳴り、教師が入ってくる。ありがとう、の「あ」も言えない。
だから、彼が指定校推薦で、たったひとつの枠を勝ち取ったことすら、クラスの噂話で初めて知ったのだった。
高校三年、十月。進路について、遅まきながら弘也も考えるようになっていた。
もちろん、それまでだって折に触れ、担任との面談を通じて、進学希望ということは伝えていた。
しかし、具体的にどこの学校に行くのかまでは、あまり明確ではなかった。専門学校だと、すぐに就活になって面白くないから、大学。家から通うことのできる、学年の進学希望者の大部分が進む学校に行くのだろうと、漠然と思っていた。
模試のときに、八個の志望校欄を埋めるのは大変だった。
本命である地元の大学と、女子大の名前を書くのが男子の中で流行っていた。それから、東京にある有名な大学の名前を、そわそわしながら第四希望くらいに書いた。
四月になったら、伊崎はその大学に行く。
返却された模試の成績表では、当然のことながら、E判定だった。特に英語がひどかった。鞄の中に、ぐちゃぐちゃにしてしまい込む。
来月には、形だけの面接を受けて、合格通知を受け取ることになっているにもかかわらず、伊崎はいつも通りだ。休み時間の喧しさをよそに、参考書を開いて勉強に励んでいた。
一般入試に挑まなければならない同級生を煽るかのような行動に、弘也は舌打ちしかけて、堪える。
いや、真面目で勤勉なのは、いいことだ。大学は学問をする場所なのから。
遊ぶことをメインに大学に行こうとしている自分が恥ずかしくなる。
もっと羽目を外して喜ぶとかしたらどうなんだ。お前はこの学年で、一番の勝ち組になるんだぞ。
八つ当たりの気持ちから、弘也は席を立った。前後の関係のとき以外で話しかけるのは、初めてだった。
「なあ、伊崎さ。A大の指定校取れたって、本当?」
サラサラ滑らかだったシャーペンの筆跡が、ぴたりと止まる。顔を上げる彼の表情からは、邪魔されたことへの苛立ちは感じられない。
「ああ」
短く肯定した。
いつもならそこで、こちらも「ふーん」で終わるのだが、今日の弘也は多少の粘りを見せた。
「もし。もしさ、俺がA大受けるって言ったら、どう思う?」
数度の瞬きとともに、凝視される。銀縁フレームの眼鏡の奥の目は澄み切っていて、空恐ろしいくらいだった。
さて、この男はどんな反応を見せるのだろう。
「頑張れ」と口だけの応援をするか、「お前が?」と、見たまま頭の悪そうな俺を馬鹿にするか、それとも「いっしょに行けるように頑張ろう」と、優等生らしい姿勢を見せるのか……。
そわそわしていた弘也の考えとは裏腹に、伊崎の反応は、事務的だった。
「そうか」
たった一言。
頑張れ、という定型文すらなく、弘也から視線を外した。
胸から喉まで、カッと熱くなった。言葉を考える心から、それを発する口先まで、すべてが怒りと羞恥で燃える。
伊崎の眼中に、自分は入っていない。前後の席、多少喋ったことがある程度の同級生では、友人やライバルはおろか、見下し対象にすらならないことを知る。
俺だけ。
俺だけが、意識しているんだ!
その事実は、弘也を打ちのめした。帰宅してからも、机に向かい、頭をぐしゃぐしゃと掻き回し、成績表をビリビリに破り捨てた。
どうにかして、視界に入ってやる。
その一心で、弘也は志望大学をA大にした。担任にも親にも止められたが、頑固に受けると言い張った。現役時には、A大しか受験しなかったほどだ。
絶対に合格して、キャンパスで伊崎に「よぉ」と声をかけるのだ。先輩、とでも言えば、さすがの彼も目を丸くするにちがいない。
一年間の辛い浪人生活を、弘也は伊崎のことだけを考えて乗り切った。我ながら阿呆らしいが、そもそもの動機が伊崎だったのだから、途切れそうになるモチベーションを保つのも、伊崎ありきなのは、当たり前だった。
そうやって合格を勝ち取った弘也は、四月に行われた各種サークルの新歓コンパには、可能な限り参加した。
高校のときも帰宅部だった伊崎がサークルに入っているとは思えなかったが、語学などの講義が同じという学生とは、必ず行き当たるはずだ。
しかし、伊崎を知る者は、誰ひとり存在しなかった。まるで伊崎が、この大学の学生ではないように。
最初のコメントを投稿しよう!