ほおずき、弾けて

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 無理、という珍しい苗字は、この地域一帯の地主の名前だった。農家を営む家はもちろん、家を建てるにあたって、土地を借りたり購入したり、世話になっていない住民はいなかった。工場だって無理家の会社のものだから、その影響力は計り知れない。  支配下に置かれているのは、大人だけじゃなかった。高校のときから、弘也たちは無理家には、一歩引いた態度を取らざるをえなかった。  なぜなら、同級生に無理の本家のひとり娘がいたからだ。  無理彩香(あやか)。何もかもが自分の思い通りになるという、金持ちらしい傲慢さを隠さない、あれは嫌な女だった。似合わない金髪のロングヘアを掻き上げて、いい女を気取っていた。  弘也は金髪を汚らしいものだと思っていた。上京後に金髪の知り合いが新しくできて、気がついた。彩香のあのボサボサした汚い髪は、彼女のずぼらさの結果だったのだ。  飲みに呼び出した友人は、「まだ昨日の酒が残ってるっていうのによ」とグチグチ言いながらも、結局ビールを頼んだ。 「あのさ、伊崎と無理って、結婚したのか?」  お通ししか来ていない段階で口にしたのは、間違いだった。こういうのは、酒が入ってから、彼が理性をドロドロにして、口を滑らせやすくなってからにすべきだった。 「あー……」  気まずそうに、彼は視線を逸らす。迅速さが売りの店員が、「ビール、お待たせっしたあ」と置いていったジョッキを、彼は「ほら、飲め飲め」と、弘也に差し出す。  伊崎と彩香が付き合っていたのは、周知の事実だった。  そもそもあの男に恋愛感情が備わっていたことにもびっくりだが、むしろ彩香の方に皆驚いていた。  地主の娘で学校一のギャルと、堅物で学校一の秀才。ラブコメ漫画にしても、出来過ぎだ。  彩香の友人(あるいは取り巻き。弘也の目には、友情ではなく媚びと映っていた)が、「なんで伊崎なんかと?」と聞けば、彩香は怒るでもなく、ふっと笑った。 『だって、この学校であたしと釣り合いそうなのって、あいつだけじゃん?』  と。  伊崎は眼鏡だし陰気で無表情だが、顔はそこそこ整っていた。背が高く、肌が白い。だがおそらく、彼女にとって――無理家にとってのステイタスになり得るのは、その能力だ。  彩香はひとり娘。いずれは婿を取り、家を継ぐ。東京の有名な大学を出て、エリートになることが保証されている男を今のうちからキープしておくことに、なんら不思議はなかった。  いつか結婚することは予想できたが、それにしても早過ぎる。本来なら、彼はまだ大学に通っている頃なのだ。それがどうして、無理家にすでに婿入りし、農協なんかで働いているのか。 「なあ、教えてくれよ」  頼むから、と両手を合わせての懇願が利いたのか、はたまた奢りの酒のおかげか、友人は渋々、話を始めた。 「高校んとき、無理が妊娠したらしいって噂があったの、知ってっか?」 「いや……」  三学期の自由登校期間のことだというから、弘也が知らなくとも無理はなかった。図書館で毎日勉強に励み、学校にはほとんど行っていなかった。 「俺らは伊崎にそんな度胸ねぇだろって笑い飛ばしてたんだけどよ、でも」  彩香の取り巻きたちは、こっそりと女子の間でカンパを募っていたと言う。参加する人間もいれば、眉をひそめて「悪いけど」と断る人間も多かった。 「そういえば、卒業式、伊崎も無理も、いなかったような……」  ああ、そうだ。思い出した。三年間、一度も首席を譲ることのなかった伊崎は、卒業式でも答辞を読むことが決まっていた。なのに当日、登校してこなかったものだから、担任たちが困っていた。結局、委員長の田中が代読して済ませたんだったか。 「俺にはわかんねぇけどさ、でも、あのあとすぐに、伊崎が農協で働き始めたんだ。無理って苗字になっててさ」  たぶんあれ、無理の親父さんのコネなんだろうぜ……。  弘也の頭は、うまく働かない。 「どうして」  前途有望、大学に入っていれば、間違いなくそこでも優秀な成績を修めていたにちがいない。  昼間見た、老婆と伊崎の姿がよみがえってくる。  あんな風に、ばばあの戯れ言に付き合うような男じゃなかった。誰かに愛想を売る暇があるなら、勉強をする。そういう男だったはずだ。 「あいつ、こんなところで終わる男じゃねぇだろ……」  俺が――知っている、伊崎雄二郎という男は。  ジョッキの持ち手を握りしめる手は、力の入れすぎでブルブルと震えている。  そんな弘也の姿を、友人は怪訝な顔をして見つめている。 「お前らって、そんなに仲良かったっけ?」  高校時代、ふたりが並んでいる姿を思い出そうとしている友人に、弘也は動きを止めた。ふーっと息を吐き出して、首を横に振る。口元に浮かべるのは、苦笑一択だ。 「仲がよかったら、お前に聞かねぇで、あいつに直接言ってるよ」  そりゃそうかぁ、と笑う友人は、とっくに酔っ払っていた。彼からこれ以上の情報は得られそうにない。  奢り損か? と思いつつ、弘也は金を払った。 「ゴチんなりやーす」  できあがった友人がふらついていて、危なっかしい。確かこいつの家は……と思い巡らし、弘也は送っていくことにした。酔い覚ましにもちょうどいいだろう。  彼の家までは、川縁を歩くことになる。日中は暑くて仕方がないが、川を撫でてから頬に到達する夜風は、心地よかった。酒で火照った肌を、適度に冷ましてくれる。 「ん? あ~?」  半分眠りかけていた友人が、突然声をあげた。 「おい、どうした」  その視線の先を確認し、弘也はハッとした。 「伊崎……?」  時刻はすでに、十一時を過ぎている。農協のダサいジャンパーで、彼は土手で何かをしている。スコップを持って、何かを植えている? 「おーい、いざ……」  大声で彼を呼ぼうとする友人の口を塞ぎ、弘也は引きずり、遠回りして帰ることにした。  翌朝、伊崎がいた辺りに向かうと、そこには緑からオレンジにまだらに色づき始めた袋のついた植物が植わっていた。 「なんだっけ、この草……」  見たことがあるが、名前が思い出せなかった。スマホで写真を撮って、検索にかけてみる。   ああ、そうだ。ほおずきだ。  けれど、なぜそんなものを植えているのか。  その理由は、いくら考えてもわからなかった。
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