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見舞いに来いという母の圧力に屈したわけではない。ただ、好奇心に駆られただけだ。病気の性質上、まともな会話は期待できない。それでも、彩香の顔を見たかった。
決してポジティブな理由ではない。ぶつけたい疑問は山ほどあるが、当たり散らせば病院の、母の迷惑になるからやらない。弱り切った横顔を眺めて、「ざまあみろ」と心の中でつぶやくのが関の山だろう。
手ぶらで行くのはさすがに気が引けて、弘也はバス停までの道中で見かけた花屋に立ち寄った。
「有岡くん?」
花だけ見て、看板は見ていなかったから、気づかなかった。高校の同級生の店だ。それこそこの店も無理家の御用達で、同級生は彩香に逆らうことができず、取り巻きの輪の隅で小さくなっていたのを覚えている。
「ウス」
短く挨拶をし、頭を下げる。彩香たちの一団と弘也は、普通には話すが、さほど親しくなかった。にこっと人好きのする笑顔を浮かべると、彼女は肩の力を抜き、「いらっしゃいませ」と、弘也を迎え入れた。
「お見舞いなら匂いの強い花は避けないとね」
花に興味のない弘也は、用途だけ伝えて適当に見繕ってもらうことにした。こういうのは、プロに任せるに限る。
花の好みがあるだろうから、と、彼女は「おじいちゃんかおばあちゃん?」と尋ねた。
一拍置いて、弘也は答える。
「いや……無理。無理彩香の、見舞い」
バチン、と、堅い茎を切り落とした。女は浮かべていた微笑みを急にキャンセルすることもできず、「彩香、さんの?」と、恐る恐る聞き返してきた。
彼女の様子に、弘也はピンときた。おそらくこいつは、男友達よりも深いところを知っているにちがいない。選択をミスしないように、唇を湿らせ、考える。
「どうして」
「うちの母親、看護師なんだ。あそこに勤めてる」
ぼかした「あそこ」が指すものを知っている彼女は、「そう」と、目を伏せた。
真面目な女だ。ここで茶化すよりも、真摯に「知りたい」という気持ちを伝えるのが正解だ。
弘也は女を見つめた。地味な彼女は、色とりどりの花という背景に、いともたやすく埋没する。高校時代、彩香の友人の多くはギャルで、その陰に隠れてしまっていたのと同じだ。
本心から、彩香と友人だったわけではない。抱えた複雑な思いもあるだろう。男子よりも深いところを知り、けれど彩香を守ろうという気持ちは感じられない。
話を聞き出すのに好都合な人間と、こんなところで出くわした幸運に感謝した。
「なあ、どうして無理は、あんなところにいるんだ? 何も知らないで見舞いに行ったら、言っちゃいけないことまで俺、言っちゃいそうでさ。だから、何か知ってるなら、教えてくれない?」
女は無言で作業を進めた。香りの強い花はやめるべきだと言ったその口で、白い百合の茎を切り落としているのだから、彼女はわかりやすい。そして結局、悩んだ末に花束に入れないのだから、善良だ。
俺だったら。
弘也は思う。
嫌がらせのために、そのまま白い百合を入れるだろうし、菊の花も採用する。
弘也は店の中を適当に眺めた。小さな店だから、歩き回るほどの広さはない。初秋の花々は、春のそれとはまた、趣が異なっている。深い青の花が美しく、その花弁に触れたとき、女は口を開いた。
「彩香さんは、卒業前」
妊娠していた。噂ではなく、事実だった。
女子はみんな、少ない小遣いやアルバイト代からカンパを強要されたが、彩香は取り巻きたちの気遣いを、「いやよ。あたし、産むもの」と一蹴した。卒業後の進路はどうせ、家事手伝いだから、支障はないと笑った。
「じゃあ、今、その子は?」
一歳は迎えているだろう。彩香が入院しているのなら、伊崎はシングルファーザー状態で、子どもを育てているのか。
農協でぎこちない笑みを浮かべていたあの男は、子ども相手にも愛想笑いで対応しているのだろうか。
弘也の想像は、しかし、大はずれだった。
女は首を横に振った。悲しそうに、やりきれなさそうに。
「赤ちゃん、産まれなかったの。親御さんに話す前に……」
流産。
「彩香さんは、子どもが産まれるのをすごく楽しみにしていたから」
不幸なことに、処置が遅れた。その結果、彼女はもう二度と、妊娠ができない身体になってしまった。
だから、狂った。最初は手首を切り刻み、どこからか入手した睡眠薬を大量に服用した。入退院を繰り返し、直近では、ドアノブで首を吊ろうとした。どれもこれも失敗に終わったのは、在宅中の伊崎が発見するのが早かったからだ。
流産騒ぎで、娘の妊娠を初めて知った無理家の人々は、伊崎を責め立てた。
貴様のせいだ。本家の跡取り娘だぞ。
そんな風に責め立てたわりに、彼らは壊れてしまった彩香を持て余した。何が跡取り娘だ。そして伊崎に彼女を押しつけた。責任を取れと結婚させてしまった。
手を出して、孕ませてしまったのは事実だったから、伊崎はまともに抵抗することなく、進学を諦めた。
それが、弘也の知らない真実だったのだ。
「そう、か……」
「彩香さんのお見舞いは、たぶん誰も行っていないの」
ただのクラスメイトはそもそも入院の事実を知らないし、緘口令も敷かれている。それに、親しい人間であればあるほど、以前の彼女を見て辛くなるから。
「でも、私が行かない理由は、ちがうの」
女は、弘也にできあがった花束を差し出した。秋らしい仕上がりになっている。弘也の目は、花束に加えられたほおずきに釘づけだ。伊崎が植えていたものと違い、熟して完全なオレンジ色に染まっている。
「ざまぁみろって思っちゃう自分が、嫌だから」
弘也に話すのは、懺悔のつもりなんだろう。彩香と同じくらい、自分勝手な女だ。女というのは、みんなそうなのか。わからない。
女は自嘲の笑みで唇を歪めると、花束からほおずきを抜いた。途端に季節感が失われる。
「なんて、花束で嫌がらせしたら、有岡くんにも迷惑かけちゃうね」
「嫌がらせ? これが?」
女はほおずきの果実を守る袋を指で撫でる。子宮を思わせるフォルムに、弘也の頬に熱が集まっていく。
「あのね、ほおずきって……」
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