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病院には、行かなかった。母親は夜勤で、弘也とは入れ違いに出勤したから、帰宅した息子のことは、知らない。
女はほおずきを抜き取ったが、弘也は懇願し、戻してもらった。その花束を持って、夜遅くにそっと家を出た。
『ほおずきってね、昔は堕胎薬として使われていたの』
子を堕ろすための植物を贈る嫌がらせ。たとえ正気であっても、彩香は気づかないだろう。
だが、彼女の夫である伊崎は?
休み時間には必ず本を開いていた、博学なあの男が、ほおずきの効用について知らないわけがない。
なのに彼は。
「伊崎!」
辿り着いた土手に、果たして彼はいた。自分の植えたほおずきの世話を、懐中電灯の明かりを頼りに行っていた伊崎は、弘也の吠え声に驚き、動きを止めた。ゆっくりと顔を上げ、そして「誰だ?」という表情を浮かべる。
「有岡だよ」
お前を追いかけて、A大を受験した、大馬鹿野郎だよ。
名前を聞いて、ようやく彼は、「そういえば出席番号が前後だったな」ということに合点がいったらしい。
「それで、何か用か?」
落ち着きすぎている。これから弘也が何を言うのかわかっているとでもいう様子で、伊崎は軍手を脱ぎ捨てた。
手入れの行き届かぬ指先。高校時代、彼の爪はどうだったか。少なくとも、あちこちに絆創膏が貼られていることはなかったはずだ。
弘也は彼の聖域たる畑へと足を踏み入れた。伊崎は少し嫌そうな顔をしたが、無言だった。弘也はかがんで、ほのかに色を変じつつあるほおずきに触れる。その瞬間、弾けてしまえばいいと思った。
彩香の腹の中で、子が死んでしまったように、実が袋の中で潰れてしまえばいいと思った。
「お前さ、無理との子ども、殺したんだろ」
立ち上がり、足先でその根を掘り返す段になって、伊崎は弘也を制止した。視線が交錯する。眼鏡の奥の眼光は鋭い。しかし、あの頃の冷たさは消え、そこに浮かぶのは諦念である。彼は肯定の頷きを返した。
ほおずきの根を煮出して作った茶を、効果が表れるまで、彩香に飲ませたのだ、と。
一度口を開けば、彼は堰を切ったように話し始めた。懺悔の機会を与えられたとでも思っているのだろう。高校時代は、こんなに饒舌ではなかった。
「子どもも、彩香も邪魔だった。いなければいいと思った。東京で、大学で、やりたいことはたくさんあった。埋もれるわけにはいかないと思った」
「それで、殺した」
伊崎は喉の奥で笑う。
「殺した? まだほとんど、人間の姿をしていなかったんだぞ」
彼の唇は、本心とは真逆のことを嘯くようにできているのだ。本当は、誰にも言えない殺人の罪に怯えて生きている。そうじゃなきゃ、ほおずきをこっそりと植えたりしない。
花屋の娘は、弘也にもうひとつ教えてくれた。
『ほおずきって、漢字だと鬼の灯って書いたりするのよ』
鬼といえば、赤や青で角があって虎のパンツを穿いて……というイメージの怪物だが、この場合の鬼は、幽霊、この世ならざるものたちの総称だ。
弘也は持参した花束を、伊崎に投げつけた。それから、彼が丹精したほおずきをむしり取る。
「こいつで、お前は魂を導こうとしてるんだ」
亡くなった子どもの霊を呼び寄せて、伊崎が何をしようと言うのか、知らない。知りたくもない。
すべてをお見通しであるという態度を崩さない弘也とは対照的に、伊崎は頭を掻きむしり、しゃがみ込んだ。花束は地面に打ち捨てられたまま。
あの、先輩に対しても教師に対しても、もちろん地域の権力者の娘である彩香に対しても、常に一定の冷たさで応じていた彼の姿とは思えない。
唸り声とともに、「どうしてうまくいかないんだ」と、ままならぬ己の運命を慟哭する。
この男も、なんて自分勝手なのか。
弘也は伊崎の襟首を掴み、立ち上がらせた。彼の瞳が、気弱に揺れる。
お前は、俺が高校時代に意識していた伊崎雄二郎じゃない。
「お前がそんなにも罰してほしいなら」
直接の被害者である子どもは、ほおずきを植えたところで彼のもとを訪れない。彩香は流産のショックで我を失ったまま、放っておけば自殺してしまう。
伊崎の求める罰を与える人間は、いない。
弘也は伊崎の唇に、歯を立てた。キスなんて可愛いものじゃない。薄い肉を食んで、伊崎が怯んだ瞬間、逃がさないと食いちぎる勢いで噛みつく。血の味が口の中にじわり広がっていく。
「罰してやるよ。俺のやり方で」
ほおずき畑に突き飛ばした。自分より背の高い伊崎に馬乗りになって、その衣服を剥ぎ取っていく。抵抗されたら、容赦なく拳を振るうつもりでいたが、その出番はなかった。
罰であると口実を作ってやった結果、伊崎はおとなしくなった。今から我が身に起こることを理解していないのかと、弘也の方が不安になる始末だった。
あちこちを噛まれ、伊崎は自分が彩香にした行為を、もっと手ひどい形で弘也にされるのだということを、受け入れていた。
女だったのなら、伊崎はこの行為で、俺の子を孕むだろう。産むも地獄、堕ろすも地獄。そうだろう?
けれど、伊崎は男だ。どうしようもなく、男だ。
孔は濡れるはずもなく、弘也による強姦は、中途半端だった。先端を入れかけたところで、あまりの狭さに弘也自身にもひどい痛みが走り、萎えてしまった。
未遂に終わったが、弘也は安堵の涙を流した。ようやく、高校時代からの伊崎への執着に決着がついたのだと思った。
不可思議だという顔で、伊崎が見上げてくる。泣きたいのはこちらだというように。
月下でほの白く浮かび上がる肢体には、弘也の暴力によってついた無数の傷、とりわけ噛み痕が残る。
そう。ずっと、こうしたかったのだ。
伊崎を追いかけ、一年浪人してまで大学を受けた。その情熱の理由に、弘也は今更気がついた。
それでも、認めたくない。決して愛してなどいない。こちらを見ない男が憎くて、屈服させてやりたかった。ただそれだけなのだ。
「罰を……」
掠れた声による懇願は、愛を求めているようにさえ聞こえる。弘也は彼の頬を強く張った。それから再び、噛みつくようなキスをした。
ふざけんなよ、何が、罰だ。
お前が楽になるために、俺を使うな。罰は口実でしかない。この行為に込められた意味は。
本当は――……。
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