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「新藤くんさ、マエストロって知ってる?」
「指揮者だっけ」
「それもあるけど、芸術家への敬称なんだって。かっこいいよね」
「へえ。何語?」
「外国語」
そうじゃない答えを返す古江は気にした様子もなく椅子を傾けた。
後脚二本で器用にバランスを取りながら座る彼女は、空中で右手の指をくねくねと動かしている。
「芸専の私たちにとっては憧れだよねえ。いつか呼ばれてみたい」
「呼んであげようか」
「いやいやこういうのは頼んで呼んでもらうやつじゃないから」
「おお、なんかすごい芸術家っぽい」
「それを外国語で?」
「誘導するのはいいのか」
あはは、と古江は人目も憚らず快活に笑った。
彼女の言う芸専とは『芸術専門コース』の略称で、美術や音楽、演劇や書道などの芸術分野への進路のサポートに特化したクラスだ。
芸専生は数が少ないため文系コースの教室の端っこにまとめられており、いつもどこか肩身の狭さを感じている。彼女を除いて。
「古江ってほんとこわいものなしって感じよな」
「そんなことないよ。キロネックスとかカツオノエボシもこわいし」
「何それ?」
「クラゲ」
古江はもう一度楽しそうな笑い声を上げる。
その顔を見て、僕はふと思い出した。
「そういえばコンクール入賞おめでとう」
もうみんなから散々言われているだろうに、古江は「これでマエストロに一歩近づけたかな」と嬉しそうに微笑む。
彼女が音楽コンクールの金管楽器部門で入賞した話は今朝の新聞の記事にもなっていて、市長に受賞報告する笑顔の彼女の写真が載っていた。
彼女に見える自信はその実力が支えているのかもしれない。
「新藤くんこそよかったね」
「なにがだよ」
「体調快復おめでとう」
古江はそう言って、にやりと悪戯っぽく笑ってみせた。
昨日の話だろう。
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