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紫色の水滴が足の間に落ちた。
その様子を巻き戻せば、水滴はキャンバスまであと数センチの距離にある平筆に帰る。
筆先は細かく振動していて、握る僕の手も同じように震えていた。
「ふう」
ひとつ息をつく。一度筆を置いて、床に落ちた水滴を拭った。雑巾に円形の紫が染みこむ。
それから再び筆を握り、キャンバスに腕を伸ばす。
しかし見えない壁でもあるかのように、筆先はキャンバスまであと数センチ届かない。
「……ダメか」
諦めて筆を置くと、窓の外から音楽が聞こえた。
吹奏楽部が練習しているのだろう。この美術室の上に音楽室がある。いつもは聞こえない音が聞こえるほど美術室には誰もいなかった。
本来は部活で賑わっている時間だが、今日は部員も顧問も表彰式に出席している。僕だけは体調不良と嘘をついた。自分が立たない式に興味はない。
頭を動かすと、古い木製の椅子が軋んだ。
ベージュのカーテンが結ばれた大きな窓の外には薄い色の青空が広がっている。これから少しずつ夜に染められていくのだろう。
「さて」
気分を入れ替えて、僕は改めて筆を取る。
もう何度目かわからない。少し乾いた筆先を潤して、キャンバスに近づける。
筆を持ち上げたとき、腕が微かに震えた。
前に運ぶとその振幅が大きくなる。
筆先とキャンバスの距離が近づくたびに振動は増していく。
そしてその筆先は、案の定キャンバスに届く寸前で停止した。
「こわいな」
静かな美術室に浮かんだ僕の呟きを乱暴に掻き消すかのように、がらりと扉を開く音が教室内に響いた。
不意に開かれた扉に思わずそちらを見る。
「……あれ?」
四角い扉が無くなった場所に、一人の女子高生が立っている。
驚く声とその顔に僕は見覚えがあった。
「今日って美術部休みじゃなかったっけ?」
じっとこちらを見つめながら尋ねる彼女の左手には金色の楽器が握られている。
音楽室は一個上だぞ、と頭では思ったが、口にするには少し時間がかかった。
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