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セルティスにとってローレンスとの婚約破棄はこなすべきタスクのようなものであり、受け入れる選択肢はない。彼にとってここは『目が覚めたらそこにいた、現実ではないどこか』であり、元の名前も思い出せないくせにセルティスという名前には強い離人感がある。
現状すら持て余しているのに、結婚などという人生の岐路に立たされるのはごめんだ。双方合意の上で円満に婚約破棄ができないのなら、相手から嫌われて婚約破棄を突きつけられればいい。
セルティスは過程が違えど得られる結果が同じであればどれも一緒と考えるほど人間の機微に疎くはなかったが、まるで物語の中の登場人物になったような心地は、セルティスに人間らしい思考を鈍らせた。
その上16歳の身体に入ったセルティスの年齢はおそらく16歳ではない。名前も顔も思い出せないのだから当然年齢も思い出せないが、少なくとも、自意識を強く持つほど若くはなかったということだ。
セルティスが真っ先にしたことは、着飾って社交場に出ることだった。
浪費家で、加えて今までの体調不良が全て嘘だと印象づける為だ。今までだってただの引きこもりだったのに、もっと悪い方向に変わらなければ現状維持にしかならない。
しかし計算外だったのはこの身体、本当に虚弱だったのである。結果的に少し遅れたデビュタントとして臨んだパーティーで貧血を起こして倒れたアクシデントは、ただセルティスの虚弱を裏付けるものにしかならなかった。
「だから家に居ろって言ったのに」
「今朝までは調子が良かったんだ、今朝までは……着飾って化粧を施すのに3時間も掛けるなんて聞いてないぞ」
「お前が無理言うから連れて来てやったのによ。ローレンスに文句言われんの俺だからな」
「そのときは俺を出しに使って令嬢を口説くのに忙しなく、俺が倒れるまでエスコートをサボっていたこともちゃんと説明させてもらうからな。お兄様」
ジェイドが顔を歪めて黙るのを見届けて目を瞑る。
エスコートは婚約者ではなく兄に頼んだ。物珍しげな目でセルティスを見てきた人たちが、それの意味する事を気づかないとは思えない。婚約者とは不仲という噂の種を蒔くには十分だった。
早々に会場を出る羽目になったが、噂を聞きつけたローレンスがパーティーに来るより先に暇できたと考えれば良い結果だ。その場で言い争って醜名を流すのも悪くないが、ローレンスが相手では上手く丸め込まれない自信もなかった。
「これからはこんな大々的に着飾るものじゃなくもっとラフなのから始めるべきだな」
「ドレスなんか着るからだろ」
「これしか服が無かったんだ」
貧相な身体のラインが出ないよう意匠の施されたスレンダーラインに加えてピッタリと身体に沿ったロングスリーブのドレスは着る人を選び、古めかしく野暮ったい印象を与える。これが似合うのは全てが精巧な人形のように整ったセルティスに許された特権だ。
セルティスはゆったりと走る馬車に揺られながら、キャビンの窓に映り込む自分を見つめた。古めかしさが古風で気品漂うと言い換えられる容姿に感謝すべきだろう。まだ幼い顔立ちとアンバランスな雰囲気の大人っぽさは人目を引いたものの、悪目立ちする要因にはならなかった。
「全く、家どころか部屋から出ないのにどうしてドレスだけは潤沢に揃ってるんだ」
それもドレスのみならず銀髪に添えられたミントベリルの髪飾りと揃いのネックレスに至るまで、クローゼットを埋め尽くす似たような別物の数が一つ、二つではない。
「何でって、ローレンスに買わせたからだろ」
「はあ? 誰が」
「お前が」
「俺が!?」
驚愕の声を上げる弟に、ジェイドは面倒くさそうに説明してやった。幼い頃ならと甘い目で見ていたが、ある時からルディック家では次男に女物の服を用意しなくなったこと。癇癪を起こしたセルティアの「夫ならば妻に欲しがるものを与える甲斐性くらい持つべきだ」と喚いた言葉がローレンスの耳に入ったこと。そしてその翌日から──到底数日では調達できないであろうオーダーメイドの──ドレスが届けられたことを。
道理でクローゼットを埋め尽くすドレスが未だ一着も処分されていないわけだ。
「まさか本当に知らなかったのか?」
セルティスは知らなかった。ということはセルティアも知らなかったであろう事実だ。
「既に金銭的にたかっていたなんて……ならあと何をすれば嫌われるんだ……?」
「死んで別人にでもならない限り無理じゃねえか?」
それはもうやったと言わないでおいたのは、セルティスなりの身内への配慮だった。
時代や文化、物の価値観が変わろうと社会を生きる上で不変のものもある。人間的評価の下がるものと言えば酒、金、女。これに尽きる。未成年のセルティスに飲酒は許されないし、金遣いの荒さは知らぬ間に発揮されていたらしい。となれば残るは爛れた人間関係。
始めは文字通り女性を侍らせようと考えたが、計画はすぐに頓挫した。どんなにセルティスの見目が整っていようが、セルティスを恋愛対象として見る女性はいなかった。
せめて距離の近い友人であればとも考えたが、セルティスに寄ってくる女性の多くは婚約者との不仲を聞きつけた強かな女性ばかりだ。ローレンスに近づくための足掛かりにしかならない。最早女であれば年齢は問わないほどに追い詰められ訪れた孤児院ですら、最初のうちはお姫様と人気だったのにどこからか現れた王子様に全てを持っていかれた。
そんなことが続き、セルティスは女を諦めた。
その日、セルティスはとあるパーティーに参加した。散々逃げ回り避けて顔も合わせなかったローレンスに腰を抱かれ、周囲の視線を掻っ攫いながら悠然と会場を闊歩する。
「どうして会場の大勢が俺たちを見ているんだ?」
「君の美しさに見惚れているのさ」
「貴方に言われると嫌味に思えてくるな」
会場の男女比率は半々だった。会場の半分、つまり大半の男はセルティスを見ていたし、大半の女はローレンスに熱烈な瞳を向けている。
「セルティアが俺を誘ってくれたとき、正直迷ったよ。君を俺のパートナーだと自慢できるこの状況を喜ぶべきか、俺が隣にいる今もなお堂々と向けられる男の視線に嫉妬するべきかまだ迷ってる」
長く真っ直ぐ伸びた銀髪は他所行き用の華やかなリボンと共に編み込まれており、ハーフアップされた残りは露出を遮る役目として頸や鎖骨を覆っていた。その銀糸に隠された肌に刺さるほどの視線を受けながら、セルティスは居心地悪そうに首に掛かる後毛を跳ね除ける。
晒されたほっそりとした肌の白さとその曲線を目にしてどこからか生唾を飲み込むのが聞こえた。
「セルティア」
咎める色を含んだローレンスの声に気付かぬふりをして、セルティスはそのまま腰に当てられた婚約者の手を払った。
「ローレンス様、少し別行動をしよう。元々このパーティーは兄の同級生の婚約を祝した場だと聞いた。会ってきたらどうだ。貴方にとっても他人事ではないだろう」
「あいつの友人だからといって俺の友人というわけではないよ」
まるで思春期の子供のようだ。さりげなく目を逸らしたローレンスにそのような感想を抱き、セルティスは小首を傾げる。
「貴方は案外寂しいことを言うのだな」
「ならばセルティアが俺の寂しさを癒してくれるかい?」
「生憎俺も寂しい人間なんだ」
ローレンスの手がセルティスの肩を抱くすんでのところでそれを躱し、ちょうど隣をすれ違った男の腕を抱き込んだ。
ローレンスと共に腕を抱かれた男も瞠目した表情でセルティスに顔を向ける。
「だから、これを機に彼らと親睦を深めようと思う」
「セルティア!」
動揺を隠さない婚約者の声を無視してそのまま年若い男の輪に身を滑り込ませた。
セルティスのあとを追おうにも、ローレンスの隣から婚約者が離れるのを目敏く見計らっていた女性陣に囲まれる。いとも容易く分断され自分の若い婚約者の後ろ姿が見えなくなってようやく、ローレンスはこれがセルティスの企てた展開だと気がついた。
自分より体格のよい男たちの陰に隠れローレンスから距離を取ったところで、無意識に詰めていた息を吐き出す。
少し強引だが上手くいった。面識がないとはいえ祝いの場で騒ぎを起こしたくないが、なりふり構ってもいられなかった。
数日前、次の誕生日でセルティス・ルディックはセルティス・オリヴェルになると知ったからである。
そんな重要なことをどうしてセルティアは記憶の片隅にでも留めて置かなかったと本気で地団駄を踏んだが、16歳本気の地団駄を前にドン引きした兄があっさり教えてくれた。
「そりゃ言わなかったからな」
「どうして!本人に黙ってるんだ!」
「父上も母上もお前のことは、なんて言うか……その……色々諦めてるし」
「俺はまだ諦めてない。早いところ男物の服を用意するよう説得してくれ」
「今更男の格好したところで何も変わらないだろ。お前が男だと知ってるやつのが少ないから、だったら隠したまま嫁に出したほうが外聞がいい」
「ならその外聞を醜聞に変えてやる」
セルティスの誕生日は今から半年先だ。結婚の経験はないが、誕生日を迎えるのと同じ感覚で日付が変われば姓が変わり他は今まで通りというわけにはいかないことくらい、経験のないセルティスにもわかる。準備にどれほど時間を費やすのか見当もつかないが、少なくとも両親が息子のことを諦めるくらい、ほとんど覆る見込みがないということだ。
もしや自分には一刻の猶予も残されていないのかもしれない。そう気づいたセルティスの行動は素早かった。
ジェイドを宥めすかし煽てて誉めそやし、最終的に兄が両親から任されている領地の仕事を一部引き受けることを条件に計画に加担させた。何の知識もないセルティスに領地の仕事などわかるはずがないが、計算は複雑だがやり方さえわかればやれないことではないと言うので頷いておいた。
そうして計画は今のところ順調に進んでいる。
自力でローレンスの隣から抜け出せるなら匿ってやると言った兄の言葉に偽りはなく、セルティスは淑女たちに囲まれたローレンスの焦り顔を認めて悠然と微笑んだ。頭一つ以上飛び抜けている長身の彼がセルティスからはよく見えるが、向こうからは見えないはずだ。
思いついた計画は簡単だった。自分が男であると触れ回ればよいのだ。
この世界は同性婚について法的問題はないが、その数自体はそう多くない。多くは平民の中でも貧しい未婚の者同士が生活水準を上げるための手段とされている。
手段として問題はないが、それが恋愛という面を持った途端周囲の見る目が変わるのだ。特に男性同士の結婚は偏見に晒され、高位貴族同士のものとなれば皆無と言ってよかった。
両親がセルティスの性別を公言しないのは、なにもセルティアを名乗った息子の意思を尊重しただけのことではないはずだ。あのローレンス・オリヴェルの結婚相手が同性だというのは、醜聞にもなり得る事柄だった。
それをよりセンセーショナルに伝えるにはどうすればいいか考えた結果、セルティスは自分の名誉と引き換えにすることにした。
「そこの君、少し話し相手になってくれないか?」
セルティスは不自然なことも承知の上で甘えた声を出す。己の声に肌が粟立ったが、すっかり馴染み深くなったロングスリーブのドレスが誰にもそれを悟らせなかった。
手当たり次第に声を掛ければ、セルティスの周囲はすぐに歳若い男で埋まる。セルティスには男を誑かす才能があった。
「すごい剣ダコだな、少し触らせてくれないか」
「えっあ、あの」
「わあ、すごく硬い……俺も最近始めたんだ。でもこんな風になるにはまだ程遠くて……そうだ、良ければ少し教えてほしいな。持ち方の指導くらいで構わないんだが」
「えっっ……ぼ、僕でよければ」
「セルティア嬢、剣の腕前なら彼より俺のほうが上ですよ」
「剣なんてセルティア嬢の白魚の手に傷がつきます。他のことを始めませんか、乗馬とか」
「乗馬ならうちの馬は大人しくて乗りやすいですよ、勿論俺と一緒に乗ればですが」
「……セルティスと呼んでくれと言っているのに」
ジェイドの言う通り、セルティスがルディック家の次男であると知っている人は居なかった。セルティア嬢と呼ばれ、淑女扱いを受ける。
セルティスは非難されるつもりで淑女らしい行動や口調を避けたが、外見と合わない一人称はセルティスの持ち合わせるミステリアスな雰囲気の一つに数えられた。流行の遅れたロングスリーブのドレスを身にまとうセルティスが悪目立ちしないのと同じように、見目にそぐわない口調や過度のスキンシップは瑕疵にならなかった。

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