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3. マスター 植野
植野と知り合ったのは西新宿にある彼のバーだった。
店に入ると左奥にバーカウンターがあり、その右横にDJブース、フロアの中心は空いていて、フロア正面奥から右の壁に沿ってテーブル席とソファー席が並んでいる。
植野はいつもバーカウンターの中にいて、カクテルの注文をさばきながら、ひっきりなしに来る子たちの話し相手をしていた。
人気あるな、植野さん。
その日はカウンターにショットガンが並び、数人がグラス叩きつけて競いながら煽っていた。
わたしは4杯目であえなく撃沈。
気持ちよくフロアで踊っていたはずなのに、次に気が付いたときは店の外階段に座り込んでいた。
鉄の手すりが冷たくて気持ちいい。
カンカンと鉄階段を下りる音がして、その足音が近づいてくる。
話しかけられた気がして顔を上げると、植野が体をかがめてこちらをのぞき込んでいた。
「植野さん、どしたの?」
「大丈夫?ショット飲み過ぎたでしょ、やりすぎ」
「ああ、平気。ちょっとペースが速かっただけだから…」
ふわぁと大きなあくびが出てしまった。
「店そろそろ空いてきたから、中のソファーで休みな、おいで」
そういってわたしを軽々と抱えて立たせた。
植野はとても小柄な男だ。
わたしの目線に頭がくるくらいの身長。
体は筋肉質でぎっちりしている。触るとわかる。
少し大きめのシャツとニットのベスト、太めのボトム、やわらかい顔つきと丸いメガネ、癖のあるふわふわした髪の毛のせいか、その中身がこんな筋肉の塊だと気づかれることが無い。触らないとわからない。
大きな塊のハムみたいだ。
植野が階段を一段上がったとき、彼の太い首がわたしの目の前にきた。
「植野さんハムみたいでおいしそうだね。」
ふざけてわたしは首元に噛みつくふりをする。
植野は表情を変えずにわたしの顎をおさえてそれを止めると、両手で顔を挟み中指でギュッと両耳の耳珠を抑え込んで耳をふさいだ。
外の音が消え血管を流れる液体の音と呼吸音だけが響く。
びっくりして植野を見ると、そのままじっと見つめられた。
10秒、いやもっと長く、何も言わずに止まっている。
心臓の音が早鐘のように激しくなって、我慢できず目をそらした。
瞬間、植野はやわらかく分厚い唇を開く。
植野の大きな口が、がぶりとわたしを食べ始めた。
口の中の音が直接聞こえる。
呼吸が激しくなっていく。
息が、できない…
差し込まれた植野の舌は別の生き物のように口の中で暴れ、わたしの魂ごと食べつくしてしまいそうだった。
自分の中の音だけが聞こえる恥ずかしさと興奮で狂いそうだ。
苦しいとうったえても植野は許してくれず、さらにむさぼってくる。
わたしが発した言葉はそのまま脳内に反響して独り言のように感じる。
本当に全部食べられてしまうかもしれない。
脳に直接響いてくる音の洪水でわたしはおかしくなっていた。
力が抜け気を失いかけたとき、植野はやっと離してくれた。
ふさがれた耳が解放され、外の音がなだれ込んだ時、わたしは膝から崩れ落ちる。
力が抜けてまともに立っていられないわたしを片手で支えた植野は、唾液でベタベタになった口のまわりをもう片方の手で丁寧に拭ってくれた。
「はい、よくできました。君はいい子だね」
少し高い柔らかい声。
店に戻った植野はわたしをカウンターから見える位置のソファーに座らせた。そして自分はまた仕事に戻る。
カクテルを作る植野を眺めながらわたしはソファーに沈んだ。
さっきの音の洪水とわたしをむさぼる植野を思いだし、また心臓がはやくなった。
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つづく
https://estar.jp/novels/26200525
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