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4. 指名客 飯妻
植野はあの日以来何もしてこない。
店に行けばいつも通りだ。
月に2、3回行く程度なので、まあ、そんなもんか。
音の洪水がフラッシュバックする。
それを振り払おうとわたしは頭を左右に振った。
「大丈夫ですか・・・?」
小さな声で飯妻が言う。
「あ、すみません、大丈夫です。」
眼の前の施術台に飯妻を横向きに寝かせ、わたしは背中側に立った。
会社の他に週に一日だけリラクゼーションサロンで働いている。
その日もわたしは、担当の台で指名客の施術をしていた。
飯妻は今日初めてわたしを指名してくれた。
来店3回目の新規客だ。
この仕事は、副業というより『好き』だけでやっている趣味のようなものだ。
人の体の動きや力のかかり方、筋肉の張りや緩みを観察するのがわたしは大好きなのだ。
直接肌に触れないよう体には大きな施術用タオルをかけ、腕や足を触るときはフェイスタオルを使う。
横向きでタオルをかけた飯妻の右腕を持ち上げ、肩を中心に軽く回旋させる。腕を支えたまま左手の親指で飯妻の右耳の後ろから首を通り鎖骨に向かって胸鎖乳突筋を攻める。
「飯妻さん、今日は乳突筋すごいですね。何かありました?ストレス、うーん・・・歯を食いしばったりとか、そのへんが王道ですけど」
「はい、そ、そんな感じです、ちょっと仕事で・・・」
飯妻は声がとても小さい。
この店は癖のある客が多く、いわゆるゴリゴリ系の強い施術が売りだ。
わたしは点よりも面で攻めるのが得意なので、店のやり方になれるまで時間がかかった。
飯妻が初めて来店したとき、たまたまわたしが担当した。
2回目は違うスタッフが対応し、3回目の今日、わたしに指名が入っていた。
初めて体を触るとき、拒否されているか受け入れられているか、手のひらから伝わる。
「強いほうが良ければ言ってくださいね」
わたしは初めてのときと同じ言葉をかけ、ストレッチと面圧だけで全身を丹念にほぐした。
飯妻の身体は今日もわたしの手のひらを拒否しなかった。
だから存分に60分間手のひらで筋肉を観察させてもらった。
線は細いけど上半身はしっかり鍛えられたしなやかな筋肉に包まれている。
なにか運んでる系?
でも腰が細いから、もし運送系の仕事ならキツイだろうなと思う。腰、やっちゃいそう。足も見かけによらず重い。
下半身しっかりめ、内もも硬い要ストレッチ、腰部左右差アリ、首、完骨、風池、えい風。
くまなく身体中を観察し、気になるところを頭に入れておく。
施術の仕上げに、座った姿勢で肩をポンポンとたたき、僧帽筋中部線維に沿って首から肩先へ向かって払うように表面を撫でる。
肩のタオルを外し、腰のことを伝えた。
上着を渡しながら指名のお礼をする。
やっぱり、強いのは苦手だったようだ。
2回目に担当したスタッフはギューギュー指押しだったから、少し心配していた。
「言いそびれてそのままやってもらいました・・・痛かったです・・・」
まるで内緒話のような飯妻の声は、ウィスパーボイスというのだろうか。
「やっぱりそうですよね、不快だと体が硬直するので余計に痛いんですよ。これは好みの問題だから難しいですけど、同じ強さでも点と面では感じ方が違うので、痛いの苦手っていうのは他の店に行ってもちゃんと伝えてくださいね。飯妻さんの身体、壊れたら困っちゃいますから。」
「あ、ありがとうございます。でも、大丈夫です、もう戻ったんで・・・」
口の端っこだけで少し笑うと、飯妻は会計をして帰っていった。
指名客、続いてくれるといいな・・・
この店は指名料が高いし強めが好きな客が多くて、わたしはなかなか指名がつかない。
わたしの指名客は一人、中年の小柄な男性だけだ。
少し若い飯妻が入ってくれたら助かるな。
お金もほしいけど、同じ身体を長く経過観察できる方が魅力的だ。
年代的にも良い布陣だし、と、わたしは戦国時代の軍師のようにレジ前で腕を組み頷いていた。
正直なところ若すぎる体は難しい。
敏感で、すぐにくすぐったがるし、そもそも触られることにも慣れていないから、とても気をつかうのでわたしはあまり得意ではない。
飯妻は30代前半くらいかな。施術していてとても楽しかった気がする。
返しがいいというか、打てば響くというか、わかりやすい素直な筋肉だった。
手のひらが沈んで飲み込まれるような、そんな感じもする・・・
また来てくれないだろうか。
あの筋肉の変化をもっと観察したいな・・・
そんなことを考えながら、今日の仕事を終え、植野のいる新宿のバーに向かった。
なんだかおあずけを食らっている犬のようだけど、植野のところへ足が向かってしまうのだ。
すごくムカつく。
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つづく
https://estar.jp/novels/26214789
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