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突然だった。需(もとむ)は仲間が集う塾で、後から参加した背の高い可愛い女の子に恋をした。彼女を狙うライバルも多かった。女の子の扱いに手慣れた連中は、何気に彼女の傍らに位置取り、にこやかに彼女のご機嫌を伺ったりしていた。そんな技すら知らなかった需は、なり振り構わず、彼女と二人っきりになった時に、
「オレ、キミのことが好きなんだ。」
と、ストレートに告白した。彼女は恐らく、困っていたのだろう。しかし、需を傷つけまいと、彼女は笑顔でその場を躱しつつ、そして、他のみんな達との関係を壊さないように、極力勤めていた。ところが、
「ちょっと話があるんだけど・・。」
需の友人の國谷(くにや)が、需に何かバツが悪そうに話しかけた。
「ん、何?、どうした?。」
需は友人が何か困っている風に見えたので、何気にたずねた。すると、
「あの、例の彼女な。オマエが今アタックしてる。実は、彼女がオレに告白して来たんだ・・。」
國谷は少し口籠もりながら、そう伝えた。
「・・へえ。そうなんだ。」
需は自身が言葉を発したらしかったが、もはや感覚は無かった。生きながらにして時が止まったような、そんな状況だった。そして、彼は精一杯取り繕うべく、
「で、オマエは彼女のことは?。」
と、自然な様子を振る舞いつつ、たずねた。
「うん。可愛い子だとは思う。」
「じゃあ、よかったじゃん!。」
そういうと、需は國谷の気持ちを後押しすべく、彼にそう伝えた。そして、それが需がその教室で発した最後の言葉だった。その日、彼はどのようにして家まで戻ったのかすら、全く覚えていなかった。次の日も、その次の日も、彼は何をするでも無く、いや、何も出来ないまま、暗い部屋で一日中、ボーッとするのみだった。
「人間の体って、こんなに重かったのか・・。」
需は誰もが普通にする行為だと思っていた恋というものが、実を結ばないことで、かくも絶望にまで達するものなのかと、あらためて感じていた。
「消えたいなあ・・。」
そんな状況から脱して、再び元の生活に、元の気分に戻っている自身の姿など、想像すら出来なかった。ただただ、自身の存在とこの世の空気との間に、得もいえぬ違和感の隔たりのみが、延々と存在し続けていた。それでも死なずにいたという事は、食事を取り、眠りかどうかさえ解らぬ休息をとってはいたのだろう。そして、そんな日々がどれ程続いたか、彼は数えることすら無かった。高校を単位スレスレで卒業はしたが、そのまま進学しようにも、全く学力が追いついていなかった。それでも周りのみんなはバイトか就職をするか、そうで無い者は、流れのまま浪人をした。需も、みんなと同じように、そのまま浪人しながら、学力の付かない自身と向き合いつつも、虚ろな毎日を送っていた。そんな中、自身が初めて本気で気持ちを注ぐことの出来たのが、件のフラれた彼女だった。需は全身全霊で、その恋に賭けた。が、結果は敢えなく惨敗。友人の國谷は、彼を心配しつつ、その後のことについて時折話はしてくれたが、需の耳は機能していなかった。かなり経ってから、後に彼女は結局、國谷とは付き合わずに、他の男性の元に走って、そのまま行方を眩ましたとのことだったが、自身の叶わぬ恋の末など、需にはもはやどうでもよかった。
心が沈むという言葉があるが、果たして自分の心は、地のどの辺りまで沈むのだろうと、需はそう思いながら日々を過ごしていたが、その沈下は心では無く、身体の方からブレーキがかかった。
「うん。何か、少しだけ体が動くな・・。」
全く無感覚、いや、闇と重さのみしか感じなかった体が、少しだけ日の光や、食べ物の匂いや、寝そべっているカーペットの手触りを伝えてきた。食事とトイレの時ぐらいしか起き上がらなかった需だったが、それ以外に、少し体を動かしてみようという、衝動ともつかない気持ちが、僅かに心から湧き上がっているような、そんな気がした。
「ああ、腹が減ったな。」
そう感じるようになると、需は家にあるインスタントラーメンを自分で作って食べてみた。
「あ、やっぱり、美味いや。」
勢い止まらず、需はラーメンを食べ、スープを一気に飲み干した。自身が食べたいという衝動に忠実に動けるようになると、さらなる衝動が次から次に湧き出した。そしていつしか、
「オレ、このままじゃマズいかな・・。」
需は自身の置かれた状況に、少しずつ目が向くようになった。まだ、何をどうしていいか、其処まで考えは至らなかったが、失恋の痛手が和らぐかどうか解らないながらも、彼はそういうことに少し長けていそうな友人に打ち明けてみようと、そう考えた。
「あのさ、ちょっと話があるんだが・・。」
需はかつて同級生だった隼(しゅん)の家に突然押しかけると、自身の身に起きたことを話した。隼もあまりに突然のことなので、驚きと困惑の表情を見せたが、需の様子が切羽詰まっている風に見て取れたので、近くにある小さな公園で話を聞くことにした。
隼は需の様子を見て、彼が何の話をしに来たのか、大方予想がついていた。
「まあ、フラれたってことか。」
需にとっては、自身の精神が崩壊してしまって、もう元通りにはならないような一大事に思えたものが、隼には特段、珍しくも無いといった感じに受け取られた。
「気分転換に・・ってどころでは無いかな。オマエには。ま、そのうち、色々と動けるようになるさ。現にこうして、ここまでやって来れたんだろ?。」
隼は慰めるでも無く、諭すでも無く、需の話を聞き終わるとタバコをくわえて一服し出した。同じ年齢だというのに、この世代は経験の差が大きいということに、需はあらためて気付かされた。自分はどんなことでも、なり振り構わず突っ込んでしまう。そして、その度に、少なからず傷を負い、心が折れそうになる。そういうのを青春といって片付けてしまうことも出来るだろうが、当事者の需には、そんな客観視を自身に対してしたくは無かった。
「ま、そのうち、飯でもいこうや。な。」
今はこれ以上、需の話を聞いても仕方が無いと思った隼は、そういいながら話を切り上げた。そして、そんな風な対応にしかならないだろうという思いも、需の中にはあったし、現に、その通りだった。
「要は自分の問題だもんな・・。」
何かが解決した訳では無かったが、それでも需の中には、少し変化の様なものが起き始めていた。そして翌日、
「よし。旅にでも出るか!。」
そのことが何になるかは解らなかったが、需は、今のまま動かないだけでは駄目だと、自身を振り返って、そう思った。そして、思い立つが早いか、彼は自身が浪人生であることを思い出すと、着の身着のまま、片手に僅かな参考書だけを持って、そのまま家を出た。向かった先は、近所を走る私鉄の駅だった。其処から真っ直ぐ南へ向かえば、都会から離れ、人里離れた侘しい山村に辿り着く。過酷な旅や試練を想定したのでは無く、需は自身を見つめ直すための、今いる場所では無い環境が欲しかった。寒空の中、需は駅までいくと切符を買い、やって来た列車に乗ると、ひたすら揺られながら車窓を眺めた。街中の景色は冬でも不思議な暖かさを放っていたが、やがて木々が目に見えて増えてくると、自然本来の冬景色に移り変わっていった。
「あー。山かあ・・。」
全くの都会から、例え僅かでも田舎の景色に触れると、今まで沈んでいた需の心も、何故かしら浮き足立つ感じがあった。そして、午後の日差しがかなり斜めになった頃、需は目的の駅に到着した。改札を潜った需は、道なりに坂を歩んでいった。暫くすると、山の中腹辺りに古い国民宿舎が現れた。
「おお、此処だ!。懐かしいなあ・・。」
需はかつて訪れた安宿が、昔とちっとも変わっていないことに、少し安堵した。そして、フロントでチェックインを済ませると、渡された鍵の番号が示してある部屋まで歩いていった。館内をスリッパで歩いたので、ドアノブに触れた需の手に、静電気が走った。
「パチッ!。」
「痛っ!。」
しかし、それもかつて慣れたことだった。需はドアを開けると、安宿に特有な畳の匂いを吸い込んだ。
「あー、来た来た。」
部屋の片隅に手荷物をポンと置くと、需は早速ゴロンと横になりながら、天井を見つめた。何の飾りっ気も無い、最低限の物だけが置かれた宿だったが、それでも、需には十分だった。思いや何で、そして沈んで動けなくなった自分では無い、此処までやって来て、いつもとは違う景色を見つめている自分が其処にはいた。そして、
「よし!、やるか!。」
需は鞄の中から持って来た問題集と筆記用具を出すと、それらをお膳に広げて、勉強を始めた。受験を目前に控えた学生にはほど遠い基礎的な問題ばかりが並んだものだったが、そんなことはどうでもよかった。彼には今、自身の何かを変えようとする、そんな切っ掛けが兎角欲しかった。しかし、今まで腰を据えて勉強をしていなかったツケは、すぐにやって来た。
「くそっ!。こんなに基礎の問題ばかりなのに、全然捗らないな・・。」
勉強は努力さえすれば何とかなると、そう思い込んでいた需は、素直な姿勢で忠実に問題をこなすという、受験生本来の勉強に取り組む姿勢が全く出来ていなかった。暫く齧り付いては、すぐに集中が途切れそうになる。それでも、わざわざ此処に来た自身の決意のようなものを確かめつつ、需は必死に問題集に食らいついた。そうこうしているうちに、需が久しく忘れていた感覚が、急に襲ってきた。
「あ、腹減ったなあ・・。」
下手なりにも頭を使って数時間問題集と格闘したことで、血糖値が低下していた。そして、何故か急に甘い物が食べたくなった需は、宿を出て近所のコンビニにでもいこうと、そう軽く考えた。自身が住む街中には、至る所にコンビニが建ち並んでいる。甘い物も何でも選べる。そういうものと一つ買って食べたら、また勉強に取り組もう。そう思いながら、需は一人、舗装された山道を下りていって、コンビニがありそうな所まで歩き続けた。
需が住む街中から、列車で僅かな時間だと思っていた其処は、思ったよりも全然山の中だった。いけどもいけども、コンビニは愚か、店と呼べるような建物が全くなかった。
「ちきしょう。全然無しかよ・・。」
もしコンビニを見つけたら、家の近所でよく買っていた、抹茶のショートケーキと缶コーヒーでも買って、すぐにでも引き返そうと思っていた需だったが、そんな淡い期待はすぐに消し飛んだ。道の両脇は葉が疎らに残った山林ばかりだった。そしてとうとう夕闇が迫ると、何やら白いものがちらつきだした。
「道理で寒いと思ったら・・。」
小さな雪の粒を眺めながら、需はそれでも歩き続けた。すると、左手に大きな民家が現れた。都会にある住宅の造りでは無く、大きな屋根の軒下に、何かが吊り下げてある、そんなこの辺り独特の民家だった。あまりにも大きなものが吊り下げてあるので、需は気になって側に寄ってみた。すると、
「うわっ!。」
それは、大きく広げられた猪の皮だった。丸ごと一頭が、恐らくはこの辺りで狩られたのだろう。内蔵や肉を取りだして、皮だけがつっかえ棒で広げられながら、見事な状態で軒に吊り下げられていた。そして、その横にはもう一頭。
「へー、この辺りでは獲れるのかあ・・。」
寒いながらも、需は初めて見る光景に感心しつつ、数日前まで生命を宿していたであろう猪の皮に見入っていた。そして、その横を見ると、何やら一際大きな動物の皮が大きな板に広げられた状態で貼り付けられていた。その黒い大きな物体を見た途端、
「熊だ!。」
需は思わず心の中で叫んだ。街中に住んでいると、動物園でもいかない限り、実物の熊など見ることも無い。仮に見たとしても、それは映像に映し出される熊である。しかし、今此処には、死んで処理されたものとはいえ、生々しい熊の形跡が厳然としてあった。
「デカイなあ・・。」
猪の皮に驚かされたばかりなのに、さらに大きな熊の皮は、人目見て息を呑むほどだった。そして、前脚にはまだ爪が残されていて、皮の末端には所々、肉の破片も着いていた。それを見た途端、
「熊が生きてたってことか・・。」
そう思いつつ、
「待てよ。ひょっとして・・、」
と、需は今自身が置かれている状況を冷静に考えた。間違い無い。この辺りには猪も、そして熊さえ生息している。そして日暮れはどんどん迫ってくる。
「急ごう。」
需はもう少しだけ歩いてコンビニを探そうと、早足で再び歩き出した。しかし、やはりいけどもいけどもコンビニは姿を現さなかった。そのうち、小粒だった白いものは、大きな塊となってどんどん天から降り注いできた。
「牡丹雪・・か?。」
などと、悠長なことをいってる暇は無かった。次第に風も強まり、フワフワと降っていた雪は、すぐに吹雪へと変わっていった。時折反対車線から来る車のヘッドライトが此方を照らしたが、雪の性で光が乱反射した。もはや、完全に都会で見る光景では無かった。ちょっとコンビニで甘い物といった感慨は、この地域では通用しない。日が落ちるまでに一日の全てのことを終えて、後は家で寛ぐ。そんな地域独特の暮らしぶりを、需は知る由も無かった。
「くーっ!。寒いなあ、チキショー。」
ふと思い立ったことが、命の危険にさえ繋がりかねないことに、需はようやく気付いた。寒さ、動物、浅はかさ。そんな言葉が需の頭の中を駆け巡った。
「戻ろう・・。」
言葉にはしたくなかったが、頭の中には降参という文字が在り在りと浮かんでいた。しかし、下らない維持や拘りなど、ギリギリの状況で生きるものにとっては無意味なのだろうと、需はすぐさま理解した。そして、吹雪が本格的に何もかも覆い尽くす直前に、需は何とか宿まで辿り着いた。
「ふーっ。危なかった。」
方や袖口に降り積もった雪を払い落とすと、需は冷え切った体のまま部屋まで戻った。そして、暖房の効いた部屋で体を温めようと、一人ぽつんと座って寛ごうとしたが、体の芯まで冷え切った需は、震えが止まらなかった。このままでは、折角の宿で風邪でもひきかねない。と、そんなとき、
「あ、確か此処、温泉があったよなあ・・。」
そう思い立つと、特に着替えも何も用意してこなかった需だが、辛うじて持って来たタオル一枚を持って、風呂場まで向かった。そして、需は脱衣場で服を脱ぐと、タオル一枚を持って、浴場のドアを開けた。と其処は、天然に湧いた温泉だが、あまり売り物にはしていない、そういう温泉だった。長方形の殺風景な岩風呂に、掛け流しの湯が少しずつ溢れていた。中途半端な時間なのか、需以外、他に誰もいなかった。すると、すぐにでも温まりたい一心で、需は湯船に飛び込んだ。
「温っ。」
寒さのせいで湯気こそ上っていたが、体を指すような熱さなど、全く無かった。しかし、
「あー。でも、温かいや。」
今の需には、この温度と湯けむりで十分だった。誰もいない温い温泉。吹雪の中を失意のまま歩き疲れた需の体を、温泉がそっと癒やしてくれた。
その日の夜、需は今までに無いぐらい、深い眠りに就いた。普段はあまり寝付きのよくない需ではあったが、今日は夢さえ見なかった。そして翌朝目覚めると、
「あれ?、急に何でもいいから、したくなってきたなあ・・。」
久しく湧くことの無かった感情が、需の体を駆け巡った。そして、食堂に用意されていた朝食をかき込むように食べると宿を飛び出して、すぐ近くにある沢に下りてみた。すると其処には、細い渓流が冷たく澄んだ水を湛えながら時折激しく、そして緩やかに流れていた。需は川伝いに歩きながら、何か生き物でもいないかと、目を皿のようにしながら観察してみた。
「こんな冬じゃ、魚もいないかな。」
そう思いながら、淀みに積もった枯れ葉をそっと手でかき分けてみた。
「うわっ、冷たっ!。」
そう思いながらも、沢ガニの一匹でも見つかればいいかと思っていたその時、
「あ、魚だ!。」
かき分けた落ち葉の間御から、黄土色に黒い小さな斑点模様の小さな魚がぴゅっと飛び出した。アブラハヤのようだった。そして魚は岩の間に来ると、そのまま動きを止めた。需はそれをそっと手で掬ってみた。
「あ、獲れた!。」
こんな真冬の冷たい川底にも、確かに生命は密やかに春を待っているようだった。そして、
「悪かったな・・。」
そういいながら、需はその魚をそっと川に戻した。魚は暫くはじっとしていたが、再び向こう岸の方へと消えていった。その後も、需は川伝いに歩いてみたが、
「よし。」
と、何か踏ん切りが付いたようにいうと、空の方に目を遣った。木々は葉を落とし、その葉が川の所々に積もり、魚達の束の間の隠れ家として、やがてそれらは微生物に分解されて、再び様々な動植物の栄養源として巡っていく。そんな一旦を垣間見た需もまた、全体の中の一部分なんだと、そんな風に感じたのだった。そしてそれは、止まること無く、絶えず循環しながら、命の橋渡しを行っているのだと、そんな風に思ったのだった。
部屋に戻った需は、昨日の吹雪の寒空から打って変わって、晴れ渡った山の景色を思い返しながら、部屋の天井を見つめつつ寝転がっていた。しかし、いままでなら、動くことさえ億劫で、そんな風にしているのが唯一、楽な姿勢だったのが、今は違っていた。
「こんなことをしてる場合じゃ無いな。」
そう思い立つが早いか、需は宿を引き払って、すぐさま駅まで向かった。そして、やって来た列車に飛び乗ると、妙に胸を躍らせながら、車窓を眺めていた。無性に何かしたくてたまらなかった。
「何でもいい。何かがしたい。」
それは理屈では無い、正に湧き上がる衝動であった。彼の枯れ果てた井戸のような心の奥底から、再び地下水脈が染み出し、そしてそれは次第に大きな噴出となり、元の水面まで、いや、それをも超えた水量を満々と湛えている様だった。やがて列車は、需の住む町に戻ってきた。改札を潜ると、需は家路に就いた。そして、部屋の奥に仕舞ってあったトレーニングウェアを引っ張り出すと、それを着込んで再び家を飛び出した。向かった先は、家から少し剥がれた大きな池だった。その周囲は舗装されていないランニングコースだった。需は軽く準備運動をすると、土を蹴りながら桜の並木道を走り抜けた。不摂生な生活のせいで、初めは思うように走れなかったが、そんなことは、どうでもよかった。今は息切れして、もう走れないと思えることが何よりも嬉しかった。
「生きてるよなあ・・、オレ。」
池の畔にある藤棚の下で息を整えながら、需は自身の体が実感をもって疲労と結びつこうとしているのを感じた。そして、今度は腕立て伏せ、次いで腹筋、さらにはスクワットと、休まず筋トレを始めた。やはりなまった体は悲鳴を上げたが、それこそが、需が望んでいたことだった。
「ふーっ。よーし。」
かつて武道でならしていた体も、長い間使わないままでいると、錆び付くものだ。しかし、こうしてぎこちなくも、再び体を動かすことで、得もいえぬ実感が込み上げてくる。需は体を鍛えることに夢中になった。翌日は案の定、前進が筋肉痛で思うようには動けなかったが、需はそんなことなどお構いなしで、昨日と同じように走り込みをし、そして、少し休んでは、筋トレを続けた。そして次の日も、また次の日も、需はひたすらに体を動かし続けた。気がつけば、池の周回数も増え、走る速度も上がり、体は締まっていった。目に見えて成果が体に表れた。そして、あと少しで桜も綻び始める、そんな状態になったのを見て、
「さ、戻るか。オレの本来の居場所へ。」
そういいながら、需はようやく、自身の進路と真剣に向き合うことを決意した。随分遠回りの人生だったが、それが自分の歩幅なんだと、需は心底思った。人の尺度じゃ無い、自身の歩幅。春の日差しは需を誘っていた。
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