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帰宅した夫を妻は満面の笑みで出迎える。
「おかえりなさい、あなた。お夕飯できてますよ」
「ああ」
夫は面倒そうに頷いた。
「ん、リリちゃんは?」
いつもなら尻尾を振って出迎えてくれる愛犬の姿がないことを夫は訝しむ。
「今夜はシチューを作ったの。着替えたらすぐお夕飯にしましょ」
夫の言葉が聞こえなかったかのように妻はキッチンに向かった。シチューのいい香りが漂ってくる。
「ああ、わかった」
妻に伝えたいことのあった夫は愛犬のことが気になりつつもさっさと夕飯を済ませ話しを切り出そうと思い食卓につく。
「さぁどうぞ。あなたが一度は食べてみたいって言ってたとても珍しいお肉のシチューよ」
皿にはふるふると震える肉の塊が乗っている。
「珍しい肉って何だよ」
「ナイショ。食べてみて」
何となく嫌な感じがして夫は再び尋ねる。
「だから、何の肉なのか聞いてるだろ」
妻は薄く微笑むだけで答えない。夫は不意にゾクリとした。いつもなら喜んで部屋から飛び出してくるはずの愛犬の姿がない。そして珍しい肉だと言って出された料理。これって、まさか……。
「おい! リリちゃんはどこなんだよ」
くつくつと笑う妻。
「やぁだ、あなたまさかこの肉がリリちゃんなんじゃないかとでも思ったの?」
「ば、馬鹿なこと言ってるんじゃない! で、リリちゃんはどこなんだよ」
夫の背中を嫌な汗が伝う。その時、インターホンが鳴り来客を告げた。
「はぁい」
ゆるりと妻が立ち上がり応答ボタンを押す。
――ワンワン美容室の者です。
妻は夫を振り向いて微笑む。
「な、なんだよ。トリミングに出してたのか。それならそうって言えよ」
「あら、ごめんなさい」
妻は玄関に向かい綺麗にトリミングされた愛犬を抱いて戻ってきた。
「さぁあなた、せっかくのシチューが冷めてしまうわ。それ、あなたが一度食べてみたいって言っていた有名なお肉屋さんの牛肉なのよ」
「あ、ああ。いただくよ」
美味そうに肉を頬張る夫に妻はワインを勧める。美味しい料理とお酒にすっかり機嫌を良くした夫はワインを何杯もおかわりし眠り込んでしまった。妻はそっと立ち上がりキッチンで包丁を研ぐ。
「私が何も知らないとでも思ってた? 愛する夫のことですもの、全部知っていたに決まってるじゃない。それでもこの子を授かってこれからは変わってくれるって信じていたのに。あなたったらあんなひどいことを言うんですもの、お母さま、ずいぶん怒ってたわ。本当に残念」
妻のスマホが着信を告げた。
「あら、お母さま? ありがとう、あのお薬とってもよく効いたわ。それはまだこれからよ、うふふ。そうそう、やっぱりあの山がいいと思うの。お屋敷からよく見えるでしょ? あそこならこの子もいつでも会いに行けるし。まぁ、処理屋さんっていうのが来てくれるのね。それは安心だわ。へぇ、姉弟でねぇ。面白いお仕事ね。そうだわ、全部はいらないから一部だけあの場所に持っていこうかしら。まぁ、綺麗に洗ってくれたりもするのね。私、彼のサラサラした髪がとっても好きだったから念入りに洗ってもらわなくっちゃ。じゃあ、また後で」
妻は通話を終え、微かに震える手で研ぎ終わったばかりの包丁を持ち夫の背後に立つ。
「シチュー美味しかったでしょ? あのお肉、死ぬまでに一度食べたいって言ってたわよね。よかったじゃない、願いが叶って。実家の裏手にね、とっても眺めのいい場所があるの。ちゃんと毎日会いに行くわね、この子を連れて」
妻は愛おしそうにお腹に手をあてた後、両手で包丁を握りしめた。その手はもう震えていない。
「私たち家族はずっと一緒。あなたも幸せでしょ?」
了
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