1478人が本棚に入れています
本棚に追加
君が転がり込んだ夜から
今日も遅くなってしまった。
一流商社『那栄商事』に勤めているんだ、これくらいは当然だ。
しかし、これでもかなり落ち着いた方だと思いながらマンションのエレベーターボタンを押す。
入社時、配属は物流部。
二年前に恋人と破局した時は、もっと酷かった。
あの頃は新しい物流センターの立ち上げで、帰れない日も何日か続いたりしていて、浮気を疑われたりもしたが信じてもらえない虚しさに、だんだんと心が離れていってしまったのだと思う。
あれ以来、恋人と呼べる人はいないし、そんな時間もない。
ただでさえ同性愛者の俺だ。恋人がたやすくできるわけではないのも分かっている。『仕事が恋人』と思い、そしてそれが一層職務への熱意となり、やりがいを感じているが、やはりふと淋しくなる時はある。
「遅いじゃ〜ん」
…… なぜ君がここにいるのだ、悪夢を見ているのかと思った。
「何か用だろうか? 」
「泊めてよ」
「…… 昼間は電車があっただろう、なぜ帰らなかったんだ」
昨夜は、家が遠くて電車がなくなってしまったと言っていたはず、昼間なら完全に帰れただろう。
「昨夜と朝食のお礼」
そう言って紙袋を俺の顔の前に差し出した。
── 獅子屋の高級もなか
思わずゴクリと唾を飲み込んでしまった。
「そ、そんなのは結構だ、構わないでくれ」
「そういうわけにはいかないよ、あんなに世話になったんだから」
割と義理堅いのだな、意外すぎて驚く。これまでの彼の印象がひどすぎたから。
「ね、だから今夜も泊めて」
前言撤回。
言葉にはしていないが。
「俺さ、女と別れて住むとこないのよ」
「追い出されたのか」
「言い方。追い出されてないよ、俺が出てきたの」
「同じだろう」
「同じじゃないだろ、考えてみろよ」
どうでもいい、なぜ玄関で君とこんな話しをしなくてはならないんだ。
「気の毒だが、俺には関係ない」
「そんなひどいこと言わないでくれよ」
「なんで俺がひどいんだっ!」
はっ、また大きな声を出してしまった。
深夜だというのに苦情が来たらどうしてくれるんだ、俺はまだ越してきて二ヶ月しか経っていない、
── 天越さん、ご近所からうるさいと苦情が出ていますので出て行ってください
なんて言われたらどうする、周りをキョロキョロと見回した。
「今夜だけだぞ」
だって、俺が追い出されてしまうかもしれない。
「もなか、好き? 」
「…… まぁ、嫌いではない」
いや、大好きだ。
しかも獅子屋の高級もなかだろう、紙袋を見てすぐに分かったぞ。上得意先へのご挨拶や新規の顧客獲得の際、那栄商事の御用達は獅子屋のもなかと決まっている。
何度も手にしているが、自分で食べたことがあるのはほんの数回。あまりに美味しくて俺の中では『もなかの王様』いや、『和菓子の王様』だ。
「遅かったね」
「………… 」
一緒に暮らしているみたいに言うな。
というか、二年前を思い出してしまって少し気が落ちた。
── 遅かったね
── 寝ていてくれてよかったのに
── もう何日も話しをしてないから
そう言った彼に、俺はなんて答えたかな…… 忘れてしまったな。
「栗もなかと餅入りもなかと、普通のもなか、どれがいい? 」
嬉しそうに持ってきた包みを自分で開けている。
「こんな時間に食べないぞ、それに、俺に持ってきてくれたんじゃないのか? 」
「そうだよ、あんたに持ってきたんだけどさ、一緒に食べようぜ」
ああ、やはり腹が立つな。
「俺、玄関入ってすぐのサービスルームでいいから」
「なんで知ってるんだ、うちの間取りを」
「元カノと住んでたとこだって言ったじゃん」
ああ、そうだった、ここで一緒に暮らしていたんだったな。
というか、
「なぜ君が勝手に決めるんだ」
「さすがに今日は玄関、ってことないでしょ? 」
「…… リビングのソファーでよければ…… サービスルームはまだ荷解きできていない荷物が山になっている」
「まじで!? ありがとう!」
そう言うと俺を抱きしめてきたから、それはそれは驚き、慌てて彼を突き飛ばした。
「や、やめてくれ」
「ごめん、ごめん、あんまりにも嬉しかったからさ」
突き飛ばされたのに平然としている彼、逆にこちらが気まずくなった。
「あ、いや…… こちらこそ、すまなかった」
「いいよ、気にすんなよ」
…… 腹立つな。謝って失敗だった。
「今夜だけだぞ」と言って彼を泊めたのに、もうかれこれ一週間が過ぎようとしている。
「いつになったら出て行ってくれるんだ」
いや、強く断固として俺が追い出せば良い話しだが。
「だからさ、そんな冷たいこと言うなよ、一朗太」
「! なぜ俺の名前を知っているんだ」
というか、「一朗太」と呼ばれて胸がときめいてしまった。
「郵便物見たからさ」
「だからと言って、名前で呼ばないでくれ」
ドキドキしてしまうから。
「なんで? 一朗太だって俺のことたまに『国親さん』って、名前で呼ぶじゃん」
「は? 国親さんって、苗字ではないのか? 」
「名前だよ、だからさ、俺も一朗太って呼ぶから」
なら君も『さん』くらい付けろ。
「…… 苗字はなんていうんだ? 」
「うーん…… 俺、自分の苗字、あんま好きじゃないんだよね〜」
などと言って、苗字を教えてはくれなかった国親。
別に知りたいわけではないし、知らなくても困らない。もうすぐ国親も出て行ってくれるだろう、そうしたら何の関係もなくなる。
今だって、別に何の関係もないが。
君が転がり込んできた夜から、俺の心は途轍もなく不安定なのだが…… 。
最初のコメントを投稿しよう!