君が転がり込んだ夜から

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君が転がり込んだ夜から

今日も遅くなってしまった。 一流商社『那栄(なさか)商事』に勤めているんだ、これくらいは当然だ。 しかし、これでもかなり落ち着いた方だと思いながらマンションのエレベーターボタンを押す。 入社時、配属は物流部。 二年前に恋人と破局した時は、もっと酷かった。 あの頃は新しい物流センターの立ち上げで、帰れない日も何日か続いたりしていて、浮気を疑われたりもしたが信じてもらえない虚しさに、だんだんと心が離れていってしまったのだと思う。 あれ以来、恋人と呼べる人はいないし、そんな時間もない。 ただでさえ同性愛者の俺だ。恋人がたやすくできるわけではないのも分かっている。『仕事が恋人』と思い、そしてそれが一層職務への熱意となり、やりがいを感じているが、やはりふと淋しくなる時はある。 「遅いじゃ〜ん」 …… なぜ君がここにいるのだ、悪夢を見ているのかと思った。 「何か用だろうか? 」 「泊めてよ」 「…… 昼間は電車があっただろう、なぜ帰らなかったんだ」 昨夜は、家が遠くて電車がなくなってしまったと言っていたはず、昼間なら完全に帰れただろう。 「昨夜と朝食のお礼」 そう言って紙袋を俺の顔の前に差し出した。 ── 獅子屋の高級もなか 思わずゴクリと唾を飲み込んでしまった。 「そ、そんなのは結構だ、構わないでくれ」 「そういうわけにはいかないよ、あんなに世話になったんだから」 割と義理堅いのだな、意外すぎて驚く。これまでの彼の印象がひどすぎたから。 「ね、だから今夜も泊めて」 前言撤回。 言葉にはしていないが。 「俺さ、女と別れて住むとこないのよ」 「追い出されたのか」 「言い方。追い出されてないよ、俺が出てきたの」 「同じだろう」 「同じじゃないだろ、考えてみろよ」 どうでもいい、なぜ玄関で君とこんな話しをしなくてはならないんだ。 「気の毒だが、俺には関係ない」 「そんなひどいこと言わないでくれよ」 「なんで俺がひどいんだっ!」 はっ、また大きな声を出してしまった。 深夜だというのに苦情が来たらどうしてくれるんだ、俺はまだ越してきて二ヶ月しか経っていない、 ── 天越さん、ご近所からうるさいと苦情が出ていますので出て行ってください なんて言われたらどうする、周りをキョロキョロと見回した。 「今夜だけだぞ」 だって、俺が追い出されてしまうかもしれない。 「もなか、好き? 」 「…… まぁ、嫌いではない」 いや、大好きだ。 しかも獅子屋の高級もなかだろう、紙袋を見てすぐに分かったぞ。上得意先へのご挨拶や新規の顧客獲得の際、那栄商事の御用達は獅子屋のもなかと決まっている。 何度も手にしているが、自分で食べたことがあるのはほんの数回。あまりに美味しくて俺の中では『もなかの王様』いや、『和菓子の王様』だ。 「遅かったね」 「………… 」 一緒に暮らしているみたいに言うな。 というか、二年前を思い出してしまって少し気が落ちた。 ── 遅かったね ── 寝ていてくれてよかったのに ── もう何日も話しをしてないから そう言った彼に、俺はなんて答えたかな…… 忘れてしまったな。 「栗もなかと餅入りもなかと、普通のもなか、どれがいい? 」 嬉しそうに持ってきた包みを自分で開けている。 「こんな時間に食べないぞ、それに、俺に持ってきてくれたんじゃないのか? 」 「そうだよ、あんたに持ってきたんだけどさ、一緒に食べようぜ」 ああ、やはり腹が立つな。 「俺、玄関入ってすぐのサービスルームでいいから」 「なんで知ってるんだ、うちの間取りを」 「元カノと住んでたとこだって言ったじゃん」 ああ、そうだった、ここで一緒に暮らしていたんだったな。 というか、 「なぜ君が勝手に決めるんだ」 「さすがに今日は玄関、ってことないでしょ? 」 「…… リビングのソファーでよければ…… サービスルームはまだ荷解きできていない荷物が山になっている」 「まじで!? ありがとう!」 そう言うと俺を抱きしめてきたから、それはそれは驚き、慌てて彼を突き飛ばした。 「や、やめてくれ」 「ごめん、ごめん、あんまりにも嬉しかったからさ」 突き飛ばされたのに平然としている彼、逆にこちらが気まずくなった。 「あ、いや…… こちらこそ、すまなかった」 「いいよ、気にすんなよ」 …… 腹立つな。謝って失敗だった。 「今夜だけだぞ」と言って彼を泊めたのに、もうかれこれ一週間が過ぎようとしている。 「いつになったら出て行ってくれるんだ」 いや、強く断固として俺が追い出せば良い話しだが。 「だからさ、そんな冷たいこと言うなよ、一朗太(いちろうた)」 「! なぜ俺の名前を知っているんだ」 というか、「一朗太」と呼ばれて胸がときめいてしまった。 「郵便物見たからさ」 「だからと言って、名前で呼ばないでくれ」 ドキドキしてしまうから。 「なんで? 一朗太だって俺のことたまに『国親さん』って、名前で呼ぶじゃん」 「は? 国親さんって、苗字ではないのか? 」 「名前だよ、だからさ、俺も一朗太って呼ぶから」 なら君も『さん』くらい付けろ。 「…… 苗字はなんていうんだ? 」 「うーん…… 俺、自分の苗字、あんま好きじゃないんだよね〜」 などと言って、苗字を教えてはくれなかった国親。 別に知りたいわけではないし、知らなくても困らない。もうすぐ国親も出て行ってくれるだろう、そうしたら何の関係もなくなる。 今だって、別に何の関係もないが。 君が転がり込んできた夜から、俺の心は途轍もなく不安定なのだが…… 。
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