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その三
自分の二の腕を掴むその手を見た途端に、ヴェリカは亡くした父と母が仲良くピアノを連弾していたその姿を思い出した。なぜだろうとその手をしみじみ眺めれば、彼の手は関節がごつごつしているが指が長くて形の良いものであったのだ。
彼女の亡父の手のように、もとは優美なくせに不格好になった手だった。
「ヴェリカ。お父様は騎士に間違えられる事があるんだ。なぜだと思う?」
「騎士様達のように素敵だから?」
「違うよ。お母様からピアノの特訓を受けているから。僕のね、関節が騎士みたいにごつくなっちゃったの。それが騎士様みたいだって」
「お父さまったら。お母様と私には、お父様は最初から騎士様ですわよ」
ヴェリカの視界が急にぼやけた。
父親の笑顔を思い出せたのは数年ぶりなのだ。
「君?」
ヴェリカは自分から父の思い出が引っ張り出された事で、例えようもなく喪失感に襲われていた。そこで、そんな記憶を引きだした手ではなく、その手の持ち主を怒りを込めて睨んでしまった。
彼は睨みを受けた瞬間、びくっと震えた。
だが、彼女の腕から手は外さなかった。
「どうして離してくださらないの?」
「俺が君に自己紹介もしていない事を思い出したからだ」
「必要ありません。私には婚約者がおりますから、他の殿方の名前など知る必要などありません」
ヴェリカは男から逃げ出そうと身を捩るが、男の手が彼女の腕から離れない。
それどころか、さらにぐいっと彼女を引っ張り、アラン達に見咎められない廊下の暗がりへと向かうのだ。
「本気で大声を出しますよ」
「出すなら既に出しているだろう。未だ悲鳴をあげないということは、評判を大事にしている君は悲鳴が出せないと見た」
「卑怯者!!」
「戦場で勝つには綺麗ごとだけでは済ませられない。で、そいつは誰だ?」
「え?」
「君の婚約者は誰だと聞いている」
「あなたには関係ありません」
「俺の名前は――」
「聞きたくありません。何度も申しますが私は婚約者がいる身です。良いから離してください。誰かに醜聞を立てられたら私はお終いです。私はあの方と結婚できなくなります」
「この程度で女を見限る男など、君が生涯をかける価値は無いだろう」
「ありますわ。まだお会いした事が無ければ、互いの評判こそが互いを知るための大事な情報です。そして、私を信じて下さっても私の落ちた評判のせいでお相手の名前を汚すことになるならば、私自身が許せません」
「その割には、こんな人気のない所にヒョコヒョコ一人で歩いていたようだが?」
「まあああ。私は身内になる方のためにここにいるのですわ。こんな人気の無い所に呼び出された令嬢の評判は、同じ女にしか守れません。彼女は一人ではありませんでした、私という女と二人でずっと行動していました。そうでしょう?」
「身内?」
ヴェリカは「失言した!」と口を閉じる。
これでは彼女の婚約者が、ドラゴネシア辺境伯だと言っているも同じだ。
「間抜け三男坊が婚約者。レティシア・ドラゴネシア嬢には兄はいるが二人とも妻帯者だ。他に彼女の近しい親族、それも未婚の結婚適齢期の男性はいない。婚期を逃したドラゴネシア本家のダーレン・ドラゴネシアに婚約者がいるとは今も昔も聞いた事が無い。令嬢が化け物は嫌だと逃げるからな」
「そこですわ」
「どこ?」
「私はそのダーレン・ドラゴネシア様と結婚を考えています。ですが彼が王都にいらっしゃるのは一週間。その期間ももう残す所はあと三日。そして、一般人の私と出会えるのは今夜限り。私はこんな場所で醜聞に塗れるわけにはいかないのです。彼の婚約者になるために!!」
「生贄の処女の気か。女に逃げられてばかりの男じゃ、どんな女だっても手にできるという、そんな考えか?」
ヴェリカは急に空気が寒くなったと身を震わせる。
そして気が付いた。
空気が凍ったのではなく、目の前の男が静かに怒っているのだという事に。
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