その一

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その一

「君との婚約を破棄したい。君から婚約の破棄の申し出をしてくれないだろうか」  男性による嘆願する静かな声が、パーティ会場から遠い廊下の一角で響いた。  声音は静かだろうが、懇願している風情だろうが、内容は完全に自分本位で考え無しのものである。 「まあ、驚いた。侯爵家三男さんたらこんなにもおまぬけさんだったの?」  名ばかりの伯爵令嬢のヴェリカは、思わず小声で呟いてしまった。  だが彼女はその三男に酷い言葉を掛けられた当人ではない。彼女は婚約破棄の危機にある婚約者達を覗き見ている野次馬である。  否。  ヴェリカは自分を野次馬では無いと自分に言い聞かせた。  まだ完全なる他人だが、今夜を境に関係者になるはずである、と。  そのために、あの辺境伯の従妹が困った事にならないように、自分が侍女みたいにして控えているのでしょう、と。  助けて恩を売る、それよ、と。  今夜は王家主催による、王宮での戦勝祝賀会が開催されている。  ヴェリカの国が他国を占領したのではなく、敵国ジサイエルの侵略を国境で防ぐことが出来たという、その祝いだ。  国境線を守り切った当地の騎士達ではなく、助力に駆け付けたけれど当地に辿り着いた頃には戦闘が終わっていた騎士達を労ってどうするのかとヴェリカは考えたが、誰にも言わずに胸にしまっている。実際に防戦の戦いをしていた騎士達の指揮官である領主様が、労いと褒美の為に王都に召喚されたのならば、ヴェリカは王家を批判するどころか感謝するべきなのだ。  辺境伯である彼が王都に来てくれなければ、王都から出られないヴェリカは彼に一生会えずじまいなのである。  ヴェリカには野望があった。  それは、結婚して家を出る、である。  彼女の両親は彼女が十二の年に亡くなり、伯爵位は叔父が継いだ。そのため、伯爵家の財産は全て叔父が管理する事になり、彼女の伯爵令嬢としての暮らしはそこで終わったのだ。  通常ならば叔父こそヴェリカを守るはずであるが、守るどころかヴェリカから本来の権利を奪い虐げるばかりである。  対外的にはヴェリカは伯爵令嬢のままである。  しかし実際は、部屋も持ち物も奪われて日陰の狭い客間に追いやられ、従姉妹達の小間使いの身分に落とされている。  それは、同じ兄弟でありながら兄夫妻と待遇が違う事に常に鬱憤を抱いていた叔父夫妻が、自分達の鬱憤晴らしをしようと試みているのかもしれない、そうヴェリカは考えて毎日を耐えている。  従姉妹達には新しいドレスを仕立てられ、出会いの為の茶会やパーティへと叔母達に連れられて仲睦まじく出掛けて行く。  もちろんヴェリカはそれを見送るだけだ。  そこでヴェリカは考えたのだ。  この牢獄から逃げ出すために、彼らが太刀打ちできない相手と結婚しよう、と。  そして彼女は自分が不幸になる気は一切無い。  彼女の幸せをわざと邪魔して来る従姉妹達に邪魔させる気も無い。  そう考えると、ヴェリカの願いを叶える方法は、ドラゴネシア侯爵との結婚しか無いのである。  国境線を守り抜いてきたドラゴネシア侯爵は、数多の戦闘で受けた傷跡と大熊のような強靭な肉体をお持ちだと国では有名だ。  言うなれば、か弱き乙女達が大柄で恐ろしい姿と忌避する外見を持つ男性である。だからこそ好都合とヴェリカは思う。そのような姿の男性との結婚をヴェリカの従姉妹達は邪魔するどころか、浅ましいぐらいに囃し立てて喜ぶだろうに違いないのである。 「ふふ。私こそ実はそういう男性が好きだって知らないでね」  ヴェリカはニヤリと口角をあげる。  外見や家柄だけしか見ない、何かあれば全て人のせいにしての泣き言だらけの騒々しい極楽鳥みたいな貴族の男には、ヴェリカこそうんざりしているのだ。  まさに領地経営の才の無い叔父そのもの。  外見だけの男は駄目。  彼女は叔父によって自分の持論が強化されるばかりと情けなく思う。 「辺境の領地を守り抜く。それはかなりの経営手腕があってこそよ。そう。私は絶対に、今夜、素晴らしき男性を手に入れるのよ!!」
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