バイバイ、またね

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 寂しそうに佇む机の小さなフックから、3年間使い古したスクールバックをそっと取り外す。  上履きのままベランダに顔を出すと、白色のペンキで何度も塗装された安っぽい柵だけが、安全装置と化していた。なんとも頼りがいがなく、3階の高さだと少し身がすくんでしまう。それでも思い切って身を乗り出せば、心地良い風がさわやかな桜の匂いを運んでくる。なんとも清々しい。今日この日だけは、未来へ期待しか感じられなくなってしまうような気がした。  眼下には、大勢の生徒たちが感情を露わにしている。抱き合い泣きじゃくる者、笑い合う者、写真をこれでもかと撮り合う者、制服のボタンをせがむ者。見ていて本当に飽きない。しかしこの場所で、こんなふうに感慨に浸れるのも今日で最後だ。  少しだけ帰りたくないと思ってしまう。 「レイ? 帰らないの?」  不意に声をかけられる。そこには面やら竹刀やらの大荷物を大事そうに抱えた彼がいた。 「ソウタか。もうそろそろ帰るよ。てか荷物は少しずつ持ち帰りなって言ったのに」 「ついつい……。今日一緒に帰りたかったんだけど、あいつらに最後なんかパーッとやらないかって言われてさ!」  ソウタは竹刀を景気よく持ち上げてみせる。 「相変わらず人気者だね。大丈夫、今日はミサトと帰ろうと思ってたの。話したいことがあって」  少し皮肉っぽく聞こえてしまったかと不安に思う。 「人気者って、どこかの会長さんほどの人気はないと思うけどな。最後だし親友と話すこともあるよね」 「まぁね」  ソウタはふと似つかわしくない、少しばかり強張ったような顔をする。 「……大学行ってからも……続くんだよね?」  ソウタのここまで不安そうな顔は初めてかもしれない。 「不安なの?」  ここで回り道をしても仕方がないと思い、私は直球勝負に出る。 「だって……レイはどう考えても美人だし……さすがに不安にもなるよ。大学の男なんてろくな奴いないって聞くし」 「美人だなんてありがと」 「いいとこしか聞いてないし!」  ソウタは少しおどけてみせるが、不安の色を完全には消せていない。 「そっか、不安……か」  ここで、「好きだよ」とでも言えば彼は満足してくれたかもしれないが、それは私にはできなかった。 「……不安だよ。でも信じてる。……好きだから!」   ソウタのまっすぐと透き通った目が私を貫く。 「私、嘘つく人は嫌いだからね」 「まだ信じてもらえてない!?」 「本気かどうか確認しただけ」 「俺って何回レイに試されればいいんだろ」 「何回でも」  ソウタはくすっと笑った。ようやくいつもの調子で話せたかもしれない。 「レイが好きとか直接言いづらいのは分かってるつもりだから大丈夫!」  ソウタは必死に私のことを理解しようとしてくれている。 「ありがとう」 「好きって言ってくれて嬉しかった。……間違いなく今でも覚えてる。とにかく信じてる!」  不思議とソウタの顔に自信が戻る。  こういうところがきっかけで私はソウタを好きになったのかもしれない。 「ソウタ!!」  少し遠くから威勢のいい声が、リノリウム張りの廊下に反響する。 「そろそろ行ってくるね! じゃ!」 「バイバイ」  彼はまた律義に重そうな荷物を抱え、教室の扉から走り出していった。  私は再び、ぽつんと1人になった。  ***   私は嘘をついたことがない。こんなことを言うとそれが嘘だと言われてしまうだろうけど、これは本当のこと。だから嘘は嫌い。きれいな嘘とか、優しい嘘なんてない。嘘で永遠に何かをしのぎ続けることはできない。でもこんなにも私が嘘を嫌うのは、きっと人に嘘をつかれるのが怖いからなのだろう。  私は嘘が嫌いと言い続ける。かわいい私を必死に守り抜くために。  ***  私は小さな扉を開け、焦げ茶色のローファーを取りだす。律儀に上履きをしまいそうになり、慌てて持ってきた袋にしまい込む。指をかかとに沿え、足を入れ込み、仕上げに軽くつま先をトンッと鳴らす。 【河川敷に来て】  メッセージを送信し、私は急いで正門へと向かった。 「ミサト、ごめん遅くなった」  ミサトは私に気づくと、急いでスマホをカバンにしまった。 「遅いよ! 会長!」  ハリセンボンのようにミサトは顔を膨らませる。素直にとてもかわいいなと思ったけど、言うと怒りそうだから、私はそれをミサトに伝えない。 「会長はやめてよ、部長」 「部長もやめてよ、会長」  いつもの感じだ。でも少し懐かしくも感じてしまう。こんな他愛もないやりとりも、最後かと思うと不思議に感じた。  私たちは時間を惜しみつつ、川沿いの遊歩道をゆっくりと進んだ。  帰りの合図を告げるチャイムが鳴り、水面は少しばかり日が強すぎる夕日で赤く染まっていた。 「……大学別々になっちゃったね」 「だってミサトは理数系でしょ」 「そうだけどさ……でもまた一緒のところ行きたかったし……。大学でも二人で剣道やりたかった……」  ミサトは分かりやすく俯く。 「それはもう難しいね……」 「やだな……もう……。帰り道でまた泣くとか。泣き虫かって」 「いいんじゃない? ミサトって泣き虫でしょ? 実際」 「ひどい!? 相変わらずストレート!」 「そうじゃなくて、う」 「嘘をつかないんでしょ?」  ミサトが片眉を少しぴくっとさせる。 「そうそう、その通り」  私は改めてミサトとは長い付き合いになったなと感じた。 「でもそんなレイとだから一緒にいられたのかも。どうも陰でこそこそが嫌いでさ」 「ミサトはそうだね」  ミサトは急に私の方を向くと、上段に構えてから、軽く面を打つ動作をして見せる。 「それにしてもさ、結構高校生活楽しみまくったと思わない?」 「そうだね。結構色々やったね」 「私はとにかく剣道やりまくって、後は実行委員で文化祭とかも一番楽しんだ気がする!彼氏とかは出来なかったけど……」 「私も部活と生徒会とかなぁ……。彼氏は出来たけど」 「むかつく! でもそりゃ彼氏くらいできるよね。ヒャクパーセントビジンだし」  ミサトのおかしなイントネーションのせいで、間違いなく美人というよりか、新しい造語かのように聞こえる。  ミサトはわざとらしく大きなため息をつく。 「私も部活で部長はやったけど、生徒会長の忙しさには敵わないな……。特にレイには剣道部の副部長までやってもらってたし」 「どうして忙しさで勝負するの?」 「いいの! 負けず嫌いなの!」  またミサトは頬を膨らませた。私は間違いなく、ミサトが面白さと可愛さを兼ね備えた素敵な女の子だと確信する。  幸せな瞬間だった。でも私には話さなければいけないことがある。 「ミサトさ……話があって」 「どうした?」  ミサトは少し目を大きくして、小首をかしげる。 「実は、縁切りたいなって思って」 「えっ!? ……どうして? めちゃくちゃ仲よさげだったよね?」  ミサトの口は分かりやすく開いたままだ。 「それでこれはわがままなんだけど、今からする話はとにかく聞くだけにしてほしいの。詳しくは詮索されたくないんだ」 「でも聞くには聞いて欲しい」 「そう……。ちょっと苦しくてさ」 「分かった、ドンとこい!!」  私を元気づけようとしてくれているのか、ミサトは腰に手を当てて胸をわざとらしく反らす。 「なんで縁を切りたいかっていうと、嫌いになったの」 「率直!?」 「何が嫌いかっていうと、結構子供っぽいところがあって、人のものを取ったりするんだよね」 「……人のものを取ったり? ……意外」 「さすがにそんなところまで可愛いとは感じられなくて。あと凄く人気者でさ、近くにいるとついていけなくなりそうで」 「人気者って、レイがそれ言う? ……まぁいいんだけどさ。その人がまぶしくてー、でも自分はーみたいなやつ?」 「そう。そんな感じ。でも一番はやっぱり嘘をつかれたからかな……」 「……やっぱりか。レイならそれで嫌いになるかもね……」  さっきまでとは一変して、ミサトは真剣なまなざしを私に向ける。  この話をするならミサトしかいなかった。 「……やっぱり嘘は嫌い」 「そっかぁ……。でも昔からずっと嘘は嫌いって言ってたわけだしね。向こうはそれを分かって付き合い始めたのに、結果嘘をついたわけでしょ? ……正直嫌われても仕方ないと思う。レイは何も悪くないよ!」   正直、私も同じ意見だった。 「そう……だよね……。こんな話、聞いてくれてありがとね」 「えっ……急に恥ずかしいな」  ミサトの耳が一気に赤くなる。  私はもう1つミサトに話す、いや確認したいことがあった。 「ミサトはさ、私のこと好き?」 「え? 大好きだよ? レイのためだったら死ねるくらい」  何をいまさらという顔でミサトは答える。 「今ミサトは勘違いしてると思うな」 「…………どういうこと??」  ミサトは首を傾げながら、「あー」とか「うーん」とか言っている。 「私はミサトのことが恋愛として好きだったの」 「えっ!!? ……何がっ、え!?」  ミサトは壊れた人形のように同じ場所を行ったり来たりする。 「レイが好き? 私を!? そりゃレイは美人だし、時々あほみたいなことして可愛いなとも思うけど……」  私は思わず吹き出してしまう。 「嘘だよ」  ここまで良いリアクションをするとは思わなかった。 「嘘!? えっ? どういうこと? っていうか嘘ついてるし!」 「いいじゃん。最後に一回だけやってみたかったの。でもすぐにばらしたでしょ?」 「そういうとこなんかよく分かんないよね。急に子供みたいなことするからさ。レイのは嘘に思えないよ! やっぱりレイは嘘つかないほうがいいね」 一気にまくし立てて、ミサトは気持ちを落ち着けようとする。 「本当にごめんね。でもやっぱりミサトは後輩君がいるから、私から告白されても付き合えないもんね?」  今日の正門でのことを思い出す。ミサトはきっとその後輩とラインでもしていたに違いない。 「ちっ違うから!! 全然っ違う!」  ここまで分かりやすい人もなかなかいない。本当に面白い。 「そうだね。違ったね。ごめんごめん。でも生徒会の副会長の子可愛いなって言ってたのは誰なんだろうなぁ?」 「もう! なんなの本当に!!」  耳の熱が伝染していくかのように、顔中が赤らんでいく。  やはりミサトは私にないものを確かに持っている。  ***  いつもの分かれ道にたどり着くと、カーブミラーが私たちを映し出した。 「本当に今までありがとう。最後に話聴いてもらえて良かった。あと初めて嘘をつかせてくれてありがとう」 「また急に。いつもなら私がレイのこと振り回してたのになぁ……。こちらこそありがとう。副部長でいつも助けてくれて、素で話してくれて、間違いなくっ……一番の……友達だった……」  ミサトの声は震えていた。 「今日は急に彼氏との別れ話聞かされて、嘘つかれて、驚きっぱなしだった……。でももうっ……同じ帰り道にこうやって話せないのは……嫌だなって……」  涙がきらきらとミサトの頬を伝っていく。  私は本当にこれで最後なんだということを改めて実感する。 「泣かないようにっ……バカ話して終わりにしようっ……って思ったのにさ」 「最後は私が振り回そうと思って」  私は今ミサトにとって理想のレイの姿を保てているだろうか。 「十分っ……振り回されたっ……」  ミサトは泣きながら、でも寂しそうに笑っていた。 「でも別に死ぬわけじゃないから。大学行ってもまた会ってよね」 「うん!!! 絶対! 絶対会う!!」 「それ嘘だったら本当に怒るからね!」 「分かってるって!」  今この瞬間、彼女が流している涙は確かに私に向けられている。 「これ以上泣いたらメイクが終わるから! もう帰るから!」 「そっか。分かった」 「全然引き留めてくれないじゃん!!!」 「引き留めたら余計に別れたくなくなるよ」 「そうだけど!!」  ミサトはブレザーの袖から覗くセーターで頬を拭う。 「またね! いつでも連絡待ってるから!!」 「ありがとう! ……バイバイ、」  私は震える声でそう言った。  ***  私は今日、人生で初めて嘘をついた。  嘘をつくことがこんなにも人を高揚させるとは知らなかった。  嘘をついているとき、胸が痛いほどに鼓動は早くなり、私は顔がにやけてしまうのを必死に抑え込んだ。  不思議と一度嘘をつき始めれば、セリフが用意されているかのように次々と言葉が飛び出した。  もしかしたら、私は嘘をつく才能があったのかもしれない。  ***  私は赤く照らされた河川敷に腰を下ろす。  風になびいて邪魔な髪を耳にかけ、スマホを開く。メッセージの画面を表示させ、送信したい相手を探すがなかなか見つからない。私はソウタをブロックしていたことに気付き、設定から解除する。ゆっくりと慎重に、間違えないよう文字を丁寧にタイプしていく。 【今までありがとう。ミサトとお幸せに】  震えた指で送信する。  私はまだ、確かに興奮していた。  ミサトは帰り道、ずっと勘違いしたままだった。  やはり人間というものは、自分のことが一番見えにくいらしい。  私はミサトにソウタの話なんて1つもしていない。  *** 「会長!」  学校を出る前に連絡は済ませておいた。  彼は肩を上下にしながら、荒い息をはく。 「すみません! 体育館の片付けに時間を取られてしまって……」 「いいよ別に」  副会長にもなれば仕事もたくさんある。生徒会の事は会長の私がよく知っている。  私は今どんな顔をしているのだろうか。自分の顔がすごく卑しくなっているような気がして心配になる。 「会長、お話というのは?」  その瞬間、私は有無を言わさず後輩の唇を奪った。彼は硬直したかと思うと、すぐに力が抜けてしまう。  脳が痺れるようだ。  不道徳的な行いは人に潤いを与える。傷つく乙女には一番の特効薬だ。  彼は言葉を失ったまま腰を抜かしている。きっとこんなところが可愛いということなのだろう。  私は、彼の耳元に近づいてささやいた。 「私嘘ついちゃったの。1つだけ。」 「…………嘘?」 やっとのことで、彼は声を絞り出す。 「バイバイ、またねって」 「どういう……」  私は彼の疑念を遮るように、静かな憎悪と軽蔑を込めて言う。 「また会うことなんて、二度とあるはずもないのに」  私はまた彼のことなど何も考えず、口づけをした。
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