1. 金っ! 金っ! 金ッ!

1/1
3人が本棚に入れています
本棚に追加
/5ページ

1. 金っ! 金っ! 金ッ!

「はぁ……、こんだけ……?」  朝のひんやりとした空気を切り裂く通勤電車の中で、健斗(けんと)はスマホ画面に目を落とし、重いため息を隠せなかった。銀行アプリに表示された給料の数字に将来への小さな希望さえも打ち砕かれ、健斗は心の奥底から湧き上がる冷気に流されまいとキュッと唇を噛む。  大卒で入って三年目、本当であれば給料も徐々に上がってしかるべきではあるのだが、折からの不景気で当面上がる気配もない。さりとて転職するほどのスキルも身についておらず、この状況から抜け出す糸口すらつかめなかった。  プシュー!  ドアが開くと同時に、サラリーマンの群れが波のように押し寄せてきた。彼らは朝の光さえも吸い取るかのような、暗く沈んだ表情をしており、死んだ魚のような目で無言で歩を詰めてくる。  くぅ……。  押し流されまいと、吊革をつかむ健斗の細い腕がプルプルと震えた。  うっ! くっ……。  車内のあちこちからも声にならないうめきがかすかに響く。まるで奴隷船である。  押されるがままに奥へと移動するだけだと、さらに人が流れてきて結局圧力は減ることがない。しかし、力み過ぎても乗れない人を出してしまう。健斗は、巧みに動きを調節しながら、押し迫る圧力を巧妙にかわしていく。なぜ、こんな状況に対処する術を身につけてしまったのだろうかと、健斗は苦笑いを浮かべた。  一体どこで道を間違えてしまったのか……? 健斗はこれまでの軌跡を一つ一つ辿ってみるが、大きな過ちを犯した記憶はなかった。学歴に恵まれたわけでもなければ、職探しの道も決して平坦ではなかったが、それでもしっかりと乗り越えている。しかし、彼の心を静かに絞めつける絶望感は、じわじわと健斗を追い詰めていた。  吊革に全てを委ねながら、抑えきれずに漏れ出たため息がまたひとつ、静かに宙を舞う。 『ため息をすると幸せが逃げるよ?』  幼なじみの女の子がポニーテールを揺らしながら、健斗の顔を覗き込み、優しい笑みを浮かべる姿が突如として映画の一コマのように心のスクリーンに躍り出た。毎日のように一緒に遊び、笑い合った底抜けに元気な彼女。その明るい笑顔が幼い私の心の中心にいつも輝いていた。  今思えば彼女に抱いていたのは初恋だったのだろう。でも、馬鹿なガキにはそんな色恋の機微なんて全く分からないから、彼女に対して無神経な言葉を投げかけ、思春期の訪れとともに疎遠になってしまっていた。今、あの娘はどうしているだろうか?  電車はタタンタタンと軽快なリズムを刻みながら鉄橋を渡っていく。健斗もそのリズムを体で感じながら窓の外を眺めた。川面に朝日がキラキラと踊り、遠くを流れる雲が健斗の心を優しく包み込む。あの子と……、あの子と一緒に川の土手をソリで滑った時もこんな雲が出ていただろうか?  今、会ったら……。ふと健斗はそんなことを妄想しかけ、ブンブンと首を振った。一体、今会って何を話すというのだろう? 彼女からしたらもはや不審者同然だ。マルチの勧誘か選挙のお願いかと勘繰られてしまう。そんなことを想像するだけでもう心はいっぱいいっぱいだった。これから仕事なのだ。心を乱すことなく、一日を乗り切らなければ。自分は一体なにをやっているのか?  健斗は額に手をやり、ギュッと目をつぶった。  健斗はイケメンとは到底言えないが、とは言っても卑下するほど悪くはないと思っている。その気になって頑張って整えて気合さえ入れれば、クラブで女の子の一人くらいは捉まえられるに違いない。しかし……。そんな風に仲良くなっても先立つものがない。デートするにはそれなりのお金がかかってしまうが、到底そんなお金など用意できないのだ。 「くぅ……。金っ! 金っ! 金ッ!」  健斗はついつぶやいてしまって、ハッとする。  一体自分は朝っぱらから何を言っているのだろう。ブンブンと再度首を振る。そして、危ない人だと思われていないかチラチラッと辺りを見回した。  みんな大人だからだろうか、スマホを眺めたり読書をしたり、こちらのことは気にかけてないように見える。  と、この時、隣の女性の顔に見覚えがあることに気づいた。  そーっと再度視線を動かしていく健斗……。  ショートカットにブラウンの瞳、そして少しぽっちゃりとしたほっぺた。スマホの動画を眺めている彼女は隣の課の女の子にそっくりに見える。目の下のほくろに見覚えがあった。少し前歯が出ていて美人の定義には当てはまらないかもしれないが、その子リスのような愛らしさには心を温かくしてくれる魅力があふれている。  その時、彼女の瞳がキュッと動いて目が合った。  えっ……。  健斗はいきなりのことに慌てたが、彼女は軽く会釈をするとまたスマホの動画鑑賞へと戻っていく。  どうも彼女は前から自分のことを分かっていたようだった。健斗は失敗したと思いながら渋い顔でまたため息をついた。  やがて電車は終点にやってくる。健斗は気まずくてそそくさと電車を降りた。すると彼女はタッタッタと後ろから駆けてきて、追い抜きざまに耳元でささやいた。 「ため息をすると幸せが逃げますよ?」  えっ……?  驚いて彼女の方を見ると、ウインクをしてクスッと笑い、そのまま軽快に駆けて人混みに紛れていく。健斗はその瞬間、幼なじみの彼女の笑顔がフラッシュバックして思わず立ちすくんでしまった。
/5ページ

最初のコメントを投稿しよう!