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『圭祐って、いつも準備してるよね。それっていつまで続くの?』 それは、卒業前、大学4年の夏。帰省していた祥子と会ったときに言われた一言だった。 「圭祐、結局どこに就職したの?」 「どこって……ふつうに営業だよ。メーカーの営業職」 「へえ。マスコミ系に進むのかと思ってた」 俺は社会学部に進学していた。 それには別に、なにか特別な理由があったわけじゃない。 進路面談の時担任に、「お前は物事を俯瞰してみてる節があるから、社会学とか学んでみたらどうだ」と言われ、決めたのだ。 確かに俺自身、集団の中で「空気を読む」ことには長けていると薄々感じていたから、集団心理や社会、組織というものには興味を惹かれた。 大学ではメディア論も履修していて、祥子の言う通り、楽しそうだとは思っていた。でも。 「マスコミ系なんて狭き門すぎるだろ。俺には無理、無理」 もちろん、就職活動で情報収集はした。その結果、俺はそんなに高いレベルの大学に進学していないし、説明会などで出会う学生たちのような熱意も勢いもない。 だからここは無理だろう、と総合的に判断したのだ。戦うだけ無駄。 でも祥子は、「そうかなあ。やってみないとわからないと思うけど」と首をひねる。 祥子はそういうやつなのだ。あと、彼女自身が優秀だから。卑屈な気持ちがふつふつと湧き上がるのがわかった。 「それは祥子が優秀だから思うだけだよ。俺はそんな才能ないし」 「そんなことないよ。圭祐はいつもヨユーって感じ。高校の時だって、私はついていくのに必死だったけど、圭祐は余裕がありそうだった。いつもどっか抜いてるっていうか。ひょいひょいってなんでもこなしちゃう感じ」 抜いてる感じ? そんなことない。俺はいつでも必死だった。 「だから、圭祐が本気出したら、どうなるんだろって思ってた。私なんかすぐ抜かれちゃうよきっと」 真っすぐに見つめられて、俺はどう反応していいかわからず、話を逸らした。 「……祥子は旅行代理店だって?」 彼女はぱっと、顔を明るくする。俺はこの笑顔が好きだった。 「そう! たぶん最初は国内事業部なんだけどね。将来的には、海外にも携わりたいって伝えてるの」 「へえ」 彼女は身振り手振りを添えながら、楽しそうに話す。 こうやってずっと、祥子の近くにいられたら――。 そんな風に妄想を膨らませていたとき、祥子の指に、光るものを見つけて一気に現実に引き戻された。 結城とまだ続いているんだろうことは、母親づてになんとなくわかっていた。 「……結城は?」 恐る恐る、聞いた。 俺から結城のことを聞くことなんてなかったから、祥子は少し驚いたような顔をしていた。 次の瞬間、少しだけ寂しそうな、苦しそうな笑顔を作った。 「結城くんは、大学院に進学したいって言ってる。……アメリカの」 それを聞いた瞬間、正直な話、俺の心には少しの期待が首をもたげた。 学生と社会人になったら、きっとふたりはすれ違う。しかもアメリカだって? 遠距離もいいところだ。大学時代は遠距離とはいえ電車で数時間もあれば会える距離だったし、学生の時分は時間もあるからふたりの仲を引き裂く壁にはなり得なかった。 でも、海外じゃわけが違う。一回会うのに時間もお金もかかるし、そもそも社会人になったら休みもそうそう取れないだろう。ひょっとしたら関係が崩れるかも。 社会人同士の俺のほうが、祥子と同じ土俵に立っている分、有利に働くこともあるんじゃないか――。 そんなさもしい考えが過る。 「そっか。じゃあなかなか会えなくなるんだな。まあ、じゃあなんかあれば俺がいつでも――」 だが、そんな考えは、次の瞬間予想外の出来事で砕け散った。 祥子が泣いていたのだ。 小学校時代、川で転んですりむいても、中学時代、先輩に難癖付けられていびられたときも、ただひたすらに笑っていた彼女が、涙を流している。俺は動揺して、どうしていいかわからずに「祥子……?」とひたすらおろおろとするばかりだった。 「ごめん、圭祐、突然泣いたりして。困るよね」 俯きながら掌で涙をぬぐい、それでも微笑もうとする彼女に、俺は「いや……」と返すのが精いっぱいだった。 「このあいだ結城くんとね、話し合ったんだ。これからのこと」 静かに話しはじめる祥子に、俺は息を呑んだ。 「学生と社会人で立場も違う。アメリカと日本、住むところも違うし遠い。だから、もう一度見直そうって」 祥子は伏し目がちに涙を流しながらとつとつと零す。 「いま少し、距離を置いてるんだ」 ――これは……もしや別れるというフラグでは? 祥子が悲しくて泣いているというのに、俺の心はそれに反して期待に膨らんでいた。最低なやつだとわかっているのに、自分の心が浮き立つのを止められない。 いよいよ、神様が俺にチャンスをくれたんだ。 逸る気持ちを抑えながら、俺はつとめて冷静に、弾んだ声にならないように、言葉を紡ぐ。 「あ~まあ、結城もいろいろ考えがあるんだろうし。男としては、追究したい道もあるんだろうさ。ほら、社会人になったら、もっと新しい出会いだってあるだろうし」 「うん、わかってる」 結城の邪魔はしたくない、と祥子は言った。 「結城くんは、お世話になってる教授から声をかけてもらっているから、国内の大学院でもいいんだって言ってた。でも、アメリカのその大学院は設備も整っているから、もっと高度な研究ができるんだって。ワクワクしながら言ってるの。でも、たぶん私に気を遣ってる」 「気を遣う?」 「そう。私はずっと旅行業をやりたかった。だから観光科に進学したし、就職もした。やりたいことができるスタート地点についたのは、私も結城くんも同じ。アメリカについていくなんてできないし、私の人生と結城くんの人生は違う。それは彼も私もわかってるから。どっちかがどっちかの人生に合わせるなんて、できない」 自立したカップルゆえの悩みなのか。この年まで誰かと付き合ったこともない俺には一切わからない世界だと思った。 「私を理由に、諦めてほしくない。でも……でも、本音を言えば、アメリカに行かないでほしい。大学時代だって、遠距離であんまり会えなくて。国内でも遠いと思ってたのに、アメリカなんて。もっと離れちゃう」 祥子が泣いている。 “あの”祥子が。 「ごめん、こんなこと圭祐に言っても仕方ないのにね。つい喋っちゃった。圭祐といて気が緩んだかな」 祥子は目を赤くして微笑む。 「……まあ、もう一回自分になにが一番必要なのか考えてみろよ」 “俺の存在に気づけよ” そんなメッセージを言外に込めたつもりだった。 こんなふうに目の前で泣ける男が、他にいるのか? 初めて見た彼女の涙に、自分が祥子にとって特別な男になった気がしていた。 「男は結城だけじゃないし。周りに目を向けてみたら、実は身近に~なんてことだってあるかもしれないぞ」 視線をそらしながらぼそぼそと言った一言に、祥子は「ふふ、ありがと」と笑った。
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