にゃんぱくしつ中毒

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そうですか。猫、ですか。 あなたは信じないかも知れませんね。 ヤツは大変危険な生き物です。 ええ、ええ。見た目は随分と可愛らしいですよ。それは認めますとも。 猫は天性のハンターとか言いますけど、正確にはアサシンです。暗殺者です。 ヤツは私の同居人が連れて来ました。まだほんの子猫でした。にも関わらず、ヤツは私を亡き者にしようとしたのです。 そんな事は分かっていない、当時の私はあまりに無防備でした。 ヤツは初めて訪れる我が家を走り回り、匂いを嗅いで回っていました。 ふと、私の存在に気がついたのでしょう。好奇心を湛えたまんまるの瞳が私を捕らえました。 そしてヨチヨチ歩きで私の方へ、寄って来ました。 猫は見つめられるのを嫌がる、そう同居人から、教わっていた私はすぐに顔を背けました。 気がつくとヤツは私のすぐそばまで近寄っていました。 そして、ヤツは私の膝に前足を掛けたのです。 柔らかな肉球が私の膝に触れた時、甘みを感じました。膝から甘みが押し寄せてくるのです。 思わず、私は自分の膝に視線を向けました。するとヤツと目が合ってしまったのです。 私は魅入られた様にヤツの瞳を見つめてしまいました。 吸い込まれるかのように澄んだまん丸のビー玉の瞳。私は口も利けず固まってしまいました。 時間にしてどれくらいだったのでしょうか。 ほんの数秒にも感じられましたし、1時間程の密度はあったように思いました。 そしてヤツは首をかしげたのです。 その瞬間、私の心臓は電撃で撃たれ、動きを止めたのです。遠のく意識を必死で手繰り寄せ、大きく息を吸い込むと、私の心臓は再び鼓動をはじめました。 ヤツは私を仕留め損なった事に気づいたのでしょう。何食わぬ顔で再び部屋を走り回り始めたのです。 ヤツはその後も私の命を執拗に狙い続けました。寝ている時さえ油断はできませんでした。 ある夜、ヤツは私のベッドに潜り込んできたのです。大方、寝ている私に牙や爪を突き立てようと考えていたのでしょう。私のベッドに潜り込んだヤツは布団の中をゴソゴソと移動した挙句、私の脇に丸まり寝てしまいました。所詮は猫、恐るるに足りず。その時の私は愚かにもそう思いました。 しかし、これがヤツの奸計だったのです。右側には同居人、左側にはヤツ。私は身動きが取れず、寝返りを打つ事ができません。前門に虎、後門に狼とは正にこの事です。 そしてそれは連夜続きました。 当然、私は睡眠不足になり、フラフラになってしまいました。そこへヤツは次なる一手を打ったのです。 ヤツは私の行く所について来るのです。私の足に体を擦り寄せて来るので歩きにくくて仕方がありません。おまけに長くしなやかな尻尾を巧みに使い、私の視野を撹乱してきます。私は転ばない様に必死でした。歩くという基本的な行為ですら困難になっている私を嘲笑うかの様に、ヤツは私を見上げてきました。 疲れの溜まった私の夢見も最悪でした。 夢の中で私はエジプトの巫女になっていました。そして神の生贄として捧げられる事になっていました。 仰向けに寝かされた私に土が被せられていきました。 ゴロゴロゴロゴロ・・・土を被せる音が厳かに響き渡りました。 そんな私をスフィンクスが見下ろしていました。スフィンクスは真実を見つけよ、と私に言いました。しかし、私には何の事か見当もつきませんでした。 そして私の胸に土が被せられました。途端に息苦しくなり、私は死を意識しました。しかし、その瞬間、これは現実では無いと気がつきました。 私は目をあけました。目が覚めたのです。にも関わらず、まだ土を被せる音や、胸の重みを消えません。そしてスフィンクスはまだ私を見下ろしています。 ぼんやりした思考と視界がはっきりするにつれて真実が見えてきました。 ヤツが私の胸に乗り、見下ろしていたのです。 スフィンクスの正体はヤツだったのです。 私はヤツを抱き上げ、身を起こしました。 ヤツは何食わぬ顔をしていましたが、私が目を覚まし、真実に気が付かなければ私はエジプトの大地になっていたのでしょう。 ヤツは私を亡き者にする為、あらゆる事を行いました。私が睡眠不足の体を休める為、うたた寝をしていた時の事です。膝から強い甘みを感じたのです。膝の方を見るとやはりヤツが居ました。ヤツは両の前足を私の膝に乗せ、執拗に押していました。きっとヤツは私の心臓がそこにあるのだと勘違いしていたに違いありません。 私の休息の時間はヤツが寝ている時だけでした。ヤツが丸くなり、あるいは仰向けでヘソを天に向けて眠っている時、私は私の時間を持つ事ができました。 ヤツが眠っている隙をついて、愛読している雑誌、「今日もねこまみれ」を読んでいました。その時、私は完全に油断をしていました。気がつくと膝から柔らかな重みと甘みが感じられました。ヤツが乗って来たのです。時折、ヤツは私の膝の上で眠っていました。そしてヤツが動き出すまで私は何もする事ができないのです。私は素早く今日のスケジュールを思い描きました。大丈夫です。ヤツが寝ている隙にやるべき事は済ませてありました。私は安心して「今日もねこまみれ」に目を落としました。すると、私と雑誌の間からヤツが姿をあらわしました。ヤツは私の胸に前足を掛け、よじ登って来たのです。ヤツの体は陽に照らされ、光を帯びて、輪郭がキラキラと光って見えました。チェックメイト、ヤツの瞳はそう雄弁に語っていました。そして、極上の真珠の様な艶やかさで輝くヤツの鼻が私のそれに押し付けられたのです。 今までで1番強い衝撃が私の全身を貫きました。私の身体の機能の幾つかは停止し、完全に死んでしまったかのようでした。 「あ、ああ・・・」と私は呻きました。完全に力の抜けた私の手から、雑誌が滑り落ち、大きな音を立てました。次の瞬間、ヤツは私の膝の上から跳び去って行きました。続けざまにアレをやられていたら私は息絶えていたでしょう。 その様な危険な日々も終わる時が来ました。ヤツは老い、残りの生はわずかとなりました。5月の風に吹かれるウインドチャイムの様な鳴き声も魔女の嗄れた声の様になり、奔放に跳び回っていた脚も身を起こすので精一杯になりました。 ヤツは最期まで私を狙いました。何という執念深さでしょうか。今際の際、ヤツは私の膝の上に乗って来ました。私としては望む所でした。猫は九生持つ、と言います。簡単には死なないでしょう。しっかりと見届けてなければ安心できません。 ヤツは私を見上げ、声にならない鳴き声をあげました。サイレントニャーと言うそうです。それは辺りの空間に響く事はありませんでした。しかし、私の中に響き渡りました。私の中のあらゆる感情を激しく揺さぶりました。その瞬間、私の思考は完全に停止しました。何度もこの攻撃を受けてしまえば、私は廃人になってしまうでしょう。しかしヤツの温かな体から次第にぬくもりが失われ、柔らかだった肢体は硬くなっていきました。 私は勝ったのです。 ヤツは死に、私は生きてヤツを見下ろしている。強い衝動が湧き上がって来ました。私はその衝動の命ずるまま泣き、叫びました。それは不思議な高揚感でした。 もうこれでゆっくりと眠れる、安心出来る生活が始まると私は意気揚々と新しい生活をはじめました。 しかし、私は20年近くヤツの攻撃を受け続けて来ました。私の胸元はなんだか感覚が無いのです。勿論、触れれば確かに在ります。けれど感覚が無いのです。 病院に行きましたが異常はありませんでした。恐らく現代医学では解明できない症状のようでした。 同居人にその事を話すと、それは「にゃんぱくしつ」なる栄養素が不足しているせいだと言いました。それは口から摂取する事はできず、猫に触れる事でしか得られないのだと。 もしかしたら、ヤツに触れられた時の甘さ、あれがにゃんぱくしつなのかも知れません。 そんな事を信じる訳に行きません。私はこの空虚感を抱えて生きて行くのでしょう。 猫とはこの様に危険な生き物です。 一度、家に入れてしまうと以前の自分に戻る事は決して出来ないのですから。
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