奥州安部一族の正体

17/32
前へ
/32ページ
次へ
第16章 浪人吉田豊綱  吉田豊綱が阿部家を去った後、どこへ身を寄せたのでしょうか。これについて詳細を述べた書物は一切残っていません。しかし、今更仙台藩に帰ることは出来ないでしょう。そうは言っても、江戸に残ることは恥をかき続けることになります。将軍家弓術指南役に成り損ねた人だ。宗家のくせに庶家に手柄を持って行かれた人だ、そんな陰口をたたかれたでしょう。歴とした武士がそんな仕打ちに耐えられるはずがありません。  吉田豊綱は生まれた年が慶長19年(1614年)です。つまり父の吉田豊隆が伊達政宗公の弓術指南役に就いた後に生まれた人です。東北で生まれ、東北で育った人ですから、帰る場所は東北しかなかったでしょう。 「吉田豊綱が東北に終の棲家を求めたことは容易に推測がつく。問題はそれが福島の常葉町とどう結び付くのかということだ」 太郎さんはそう思いました。そこで既にわかっている常葉町での太郎さんの先祖の状況と、吉田豊綱の状況がどうように一致するのかを見極めなくてはならないと思いました。  太郎さんは、改めて常葉のことを思い出してみることにしました。常葉では吉田隼人が御用人だった常磐城が天正17年(1589年)に落城しています。この時、永禄十二年(1569年)生まれの吉田豊隆が常磐城の御用人だったとはとても考えられません。伊達政宗公の弓術指南役に就任する前ですから、滋賀県吉田城の城主、或いはその後継ぎだったはずです。勿論、吉田豊隆の嫡子、吉田豊綱はこの世には生まれていません。ですからこの二人が吉田隼人と同一人物であるはずがありません。  次に吉田杢右衛門が大庄屋に就任した寛永6年(1629年)には、吉田豊隆は嫡子の吉田豊綱を連れて既に江戸に旅立っています。ですからこの二人が吉田杢衛門と同一人物であるはずがありません。  最後に常葉の墓域に建っている大名の子女以上の墓について考えてみました。それは享保10年(1725年)造立のものですが、それが江戸から常葉にやって来た吉田豊綱の墓だと言えるのでしょうか。それを太郎さんは考えてみました。  吉田豊綱は延宝3年(1675年)に他界しています。それに対してあの墓の造立は享保10年(1725年)ですから、ちょうど50年も後に建てられたわけです。勿論、人が亡くなった後に墓が建てられているので順番はあっています(逆修という例外もありますが一般的には人が亡くなった後に墓を建てます)。しかし、その人が亡くなって50年も経ってから墓が建てられることなんてあるのだろうかと太郎さんは思ったのです。  しかしその疑問はある論文によって消え去りました。それは、日本考古学協会の「墓標からみた江戸時代の人口移動」という論文です。そこにはこんなことが書かれています。 「江戸時代は没後三十三年、あるいは没後五十年の、いわゆる弔い上げの時に墓を建てるのが当時の習わしだった」 「これだ!」  太郎さんはその一節を見て納得しました。つまり、吉田豊綱が亡くなってちょうど50年後に墓が建てられても少しもおかしいことはなかったのです。いいえ、寧ろ50年後に墓が建てられることが当時の習わしだったのです。 ただ、庶民は墓を建てられなかったので、土を盛ったりしただけや、或いは盛った土に小枝を差したり、河原から拾って来た石をその上に置いたりして墓に見立てていました。やがて雨風がそれらを吹き飛ばし、或いは洗い流して墓の存在を消し去ってしまったのです。 一方、身分の高い武士は土を盛った場所に木製の卒塔婆を建てて、法事毎にそれを建て替えていました。そして三十三回忌や五十回忌の弔い上げの際に石製の卒塔婆、即ち墓石に置き換えていたのです。 「よし、これで吉田豊綱の没年と墓の造立年に整合性が取れた。つまり、あそこに葬られているのが吉田豊綱でもおかしくないということだ」  太郎さんはそう思いました。そして、そのことがわかると嬉しくなりました。それに、もしあの墓の主が元伊達政宗公の弓術指南役の嫡子であり、大坂城代弓術指南役だった吉田豊綱のものだとしたら、共同墓地で常磐城の家老職の家より高い場所に墓域があるのも納得出来ると太郎さんは考えたのです。そして墓の高さ、形状も大名の子女以上のものでも、納得がいったのです。   ただこのような状況証拠があっても最後の疑問が残ります。それは何故、吉田豊綱は常葉町へ向かったのか、ということです。
/32ページ

最初のコメントを投稿しよう!

14人が本棚に入れています
本棚に追加