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第17章 吉田豊綱は何故、常葉に向かったのか?
太郎さんの先祖である吉田豊綱は仙台で生まれ、元服直前の満13歳の時に父に同行して仙台を離れて江戸に向かいました。すると、吉田豊綱は仙台のことしかわからなかったと言っても過言ではないでしょう。完全な東北人です。
その後、吉田豊綱は将軍家弓術指南役就任の仲介をお願いしていた大坂城代阿部正次が亡くなる正保4年(1647年)まで江戸に身を置きます。阿部正次が亡くなったことで将軍家弓術指南役就任の道は断たれました。逃した魚は将軍家ですから、他家の弓術指南役に就こうとは思わなかったことでしょう。
これらのことから吉田豊綱の本当の気持ちは、仙台に戻りたかったのだろうと思います。しかし、将軍家弓術指南役になりたいからと、伊達政宗公に無理を言って江戸に出て来てしまった手前、仙台には戻れなかったと思われます。
また、寛永13年(1636年)には伊達政宗公が亡くなっています。大坂城代阿部正次が亡くなる11年前です。もし、伊達政宗公が存命だったら帰還できる可能性があったかもしれません。しかし、仙台藩主は次の忠宗公に代替わりをしています。その可能性も断たれてしまったと考えるべきです。
つまり、吉田豊綱の頭の中は以下のような思いがぐるぐると渦巻いていたことと思われます。
●江戸には居たくない。
●仙台に帰りたいけど今更無理である。
●仙台がだめならせめて東北のどこかに行きたい。
そして最後に思い付いたのが、どこか頼れる場所はないだろうか、ということだったはずです。その頼れる場所が常葉町であったとしたら、その根拠はどんなことでしょうか? ここで改めて常葉町について太郎さんは記憶を振り返ってみました。すると・・・
●赤松則村の孫が常磐城の城主になり、子松神社を再建した。
●常磐城は落城してしまったが、その縁者・子孫がそこに残っていた。
・・・ということでした。
太郎さんは吉田氏について書かれている書物を改めて探してみることにしました。そしてそれから赤松氏との関係がわからないかと思ったのです。
すると灯台下暗し、先祖探しには身近な書物である、「本朝尊卑分脈系譜雑類要集」という南北朝時代から室町時代に完成した系図集に、有力な情報が記載されていたのです。そこにはこのように書かれていました。
「永正年間の頃、守護だった赤松晴政公が職務で京に身を置いていて、領地を留守にしていました。その時、守護代だった浦上氏が謀反を起こし、領地を奪ってしまったのです。そこで赤松晴政公は弓術宗家吉田重政に助力を求め、ともに浦上氏と戦いました。この時、吉田重政が大きな功績を残したのです」
太郎さんはこれだ! と心の中で叫びました。永正年間というと、1520年頃の話になります。吉田重政というと吉田豊綱の4代前の先祖で、高祖父になります。このような縁が太郎さんの先祖と赤松家との間にあって、吉田豊綱は常葉の地を選んだのではないかと太郎さんは考えたのです。
吉田流宗家の足どりは大坂城代阿部正次が亡くなった以降、空白になっています。何も情報がないのです。しかし浪人になってしまっては、その家が名を残すことは不可能でしょう。ただ家紋、墓域の位置、大型の天冠墓標の存在、古文書、口伝など、たくさんのものが有力な証拠として、太郎さんの先祖がそのような家だったことを物語っているのです。勿論現在も宗家は断絶したままで、印西派などの庶家が吉田流弓術を存続させてはいます。
太郎さんはここまででわかったことを頭の中でまとめてみました。
「祖父の口伝にあった安部一族が先祖であるということが出発点になって、それが出雲吉田氏を名乗り、その後弓術吉田流宗家、室町幕府将軍家弓術指南役、伊達政宗公弓術指南役、大坂城代弓術指南役を経て、浪人になってしまった」
そしてここまで先祖のことがわかったことで、これをもって先祖探しを終えることにしたのです。
「あれ?」
しかしそう思った瞬間、そうです。荒川の墓に刻まれた家紋の正体が解き明かされていないことを太郎さんは思い出したのです。
「安部一族がいつから存在するのかわからないけど、少なくとも安部一族が前九年の役に巻き込まれた永承6年(1051年)から数えても、969年前までは先祖を遡れたことになる。しかし家紋については朝倉義景公から贈られた家紋に関する情報だけで、肝心の荒川の墓の家紋については何一つわかっていない」
太郎さんはそのことに気が付くと、これまでの先祖探しが無駄だったようにも思えてきました。二郎さんは太郎さんから「丸に三つ盛木瓜」の家紋の話が聞けて上機嫌でしたが、太郎さんは何か物足りないものを感じていたのです。
ところがそんな太郎さんに再び二郎さんから電話がかかったのです。
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