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第1章
吉田二郎さんは今年還暦を迎えます。二郎さんには7つ違いの太郎さんという兄が一人いて、その一人娘の桜子さんが秋に結婚することになりました。すると二郎さんの妻が奮発して黒留袖を新調したいと言い出したのです。ところが・・・
「もしもし、兄さん?」
二郎さんは、兄の太郎さんにどうしても聞きたいことがあって、太郎さんのスマートフォンに電話をしました。太郎さんは数年前まで地方公務員でしたが、今は退職して、悠々自適な生活を送っています。
「二郎、どうしたんだい?」
「実はそちらの桜子ちゃんの結婚式に着ていく黒留袖を新調したいって、うちの花子が言い出してね」
「花子さんが黒留袖を新調したいって?」
「うん」
「わざわざそこまでしなくても」
「僕もそう言ったんだけど、レンタルじゃなくて、どうしても新調したいっていうんだよ」
「そうなんだ」
「それでね、黒留袖って家紋を付けるよね?」
「うん。正式なものは五か所に付けるよな」
「それでうちがどんな家紋だったのか、兄さんに聞きたくて電話をしたんだよ」
「うちの家紋?」
「うん」
「うちの家紋は荒川の墓に刻まれてたよな?」
「それは知ってる」
「じゃあ、それでいいんじゃないか?」
「僕もそう思って、わざわざお墓に行って写真を撮って来たんだよ」
「それなら完璧だよ」
「ところが花子がその写真を呉服屋に見せたところ、そんな家紋は無いって言われたっていうんだ」
「無い?」
「うん。無いらしい」
「無いってどういうことだい? その呉服屋では扱っていない家紋だっていうこと?」
「家紋に関しては呉服屋から家紋の専門業者に委託しているようなんだけどね。そちらから、うちの家紋は存在しないって言われたそうなんだよ」
「どういうことだい?」
「それで韓国の方ですかって聞かれたらしいんだ」
「韓国って、韓国には日本みたいな家紋はないはずだよ」
「それで黒留袖の話が頓挫してしまって、それで兄さんにうちの家紋は何なのか聞いてくれって花子に頼まれて電話したんだよ」
弟からの電話には太郎さんも頭を抱えてしまいました。毎年両親の命日とお彼岸には墓参りをしていましたが、家紋について特に関心があったわけではありませんでした。
そもそもその墓は太郎さんの祖父が建て、家紋は祖父の指示でその墓に刻まれたものだと太郎さんは太郎さんの父から聞いていました。その祖父は太郎さんが生まれる前に他界しているので、家紋について祖父からは何も話を聞いていませんでした。
「確か親父の話だと、『丸に三つ盛亀甲に優曇華(うどんげ)の花』だと言っていたような気がするんだけどなあ」
「『優曇華』?」
「うん。『優曇華』。でもはっきりそう言っていたのかは覚えていない。何かの記憶とごっちゃになっているかもしれない」
「『優曇華』って何?」
「『優曇華』って、伝説上の植物で3000年に一度しか咲かない花らしいんだ。その花が咲く時は金輪王(こんりんおう)が姿を現すらしいぞ」
金輪王とは、古代インドにおける理想的な王を指し、王に求められるすべての条件を備えているといいます。
「家紋は『優曇華の花』ですなんて言ったら、今度はインドの方ですかって聞かれそう」
二郎さんにそう言われて、太郎さんもそんな気がしました。
「花子の黒留袖への思いは意外に強いみたいなんだ。私も50代になったし、やっと着物が似合う歳になったとか、花子の兄弟の子供たちも結婚適齢期になって、これからは黒留袖を活用する機会が目白押しだっていうんだよ」
「そうなんだね」
「だから家紋の件は宜しくねって、そう僕に言うんだよ」
太郎さんは二郎さんの話を聞いて、長男である自分が我が家の家紋の正体を是非見極めなくてはいけないという強い義務感におそわれたのです。
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