序幕 色無き平穏

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序幕 色無き平穏

 ――私は今、とっても幸せです。  学生時代から付き合っていた人と結婚して温かい家庭を築き、三人の可愛い子宝にも恵まれて何不自由ない暮らしを送っている。幸せ過ぎて怖いくらいだと、眩しい笑顔で答える煌びやかな女性。誰もが羨むような幸せな人生を謳歌しているのだろう。 「幸せってなんだろ?」  誰もが口を揃えて普通と表現する高望みにも似た幸福。口に出すことは簡単だが、本当にあるのかもわからない。スマホの画面越しに微笑むこの女性も仮面を被っているだけで、本当は幸せだと感じていない可能性だってある。凄い、羨ましい。そんな羨望の言葉を浴びることに幸せを感じ、そのためにありもしない虚構を語ることほど虚しいこともないだろう。  思えば、私の人生はどうしようもなく退屈だった。虚構を語って得られる偽りの高鳴りすら感じたことはない。人が幸せだと、楽しいと笑顔を見せたことは一通りやってきたつもりだ。それなりに勉強もしたし、それなりに遊んだし、それなりに恋愛もしたし、それなりにルールを破ったし、それなりに親切にしてみたし。しかし、退屈から抜け出せたことはない。  ――何でもない普通の生活こそが本当の幸せだ。  誰かがそんなことを言っていた。しかし、それは刺激を味わい尽くしたからこそ言えることだろう。刺激を知らない人間が、普通の生活こそが幸せだと思える日など、永遠に訪れることはない。だって、私がそうだから。私はまだこの平穏無事な生活が幸せに思えるほど、刺激的な日常を送ったことはない。いつになったらこの退屈な日々に終わりが訪れるのだろうか。 「面白いこと探しにでも行こっと」  時刻は夜の七時過ぎ。丁度良い時間だと布団を蹴飛ばして立ち上がる。  クローゼットから適当なシャツとズボンを引っ張り出して着替えた。上着を羽織ってスマホと財布だけをポケットに仕舞う。自転車の鍵を手に取ったところで、今日は夕方まで雨が降っていたことと、自転車のサドルにカバーをし忘れていたことを思い出した。私の自転車のサドルにはどこか小さな穴が開いているせいか、カバーを忘れた雨上がりにうっかり座るとお尻が濡れてしまう。以前、そのせいで恥ずかしい思いをしたのは苦い思い出だ。 「歩きでいっか」  いつも夜遅くに帰ってくる放任主義の両親に散歩に行ってくるとだけ連絡して、腕を左右に伸ばしてストレッチしながら玄関へ向かう。電気の消し忘れはないか、火の元は大丈夫か、最後に戸締りは問題ないかを確認した。この家に盗りたくなるような金目の物なんてないだろうが念のためだ。 「さて、それじゃあ行きますかぁ」  防水靴を履いて意気揚々と家を出た。
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