序幕 色無き平穏

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 夏も終わりに近づいて少しは過ごしやすくなっているが、雨上がりはやはりじめっとしていて蒸し暑い。吹く風も生温く湿っていて気持ちが悪い。これなら部屋でクーラーをつけて涼んでいた方が良かったかもしれないと少しだけ後悔してしまったが、もう着替えて外に出てしまったのだから仕方ない。  家を出てすぐの道では、通学のためにいつも右へ行く。だから、面白いことを探す時はいつも左へ行く。しかし、何となく今日は通学路と同じ右へ行くことにした。途中で通学路から外れて適当な道を歩いてみよう。  小さな川を横切る橋で立ち止まった。橋を渡って真っ直ぐ行けば高校へ辿り着く。逡巡した後、橋を渡らずに川沿いを歩いてみることにした。身体の右側で川のせせらぎを聞きながら、左側で公園を囲う木々のざわめきを聞く。視界に入れたことはあっても歩いたことはない道。歩き慣れた道から遠ざかる程、いつも不思議な感覚が襲ってくる。表現し難いが、まるで危険なモノに少しずつ近づいているかのような、そんな感覚。  それから十五分ほど気の向くままに歩いた。周囲からは見慣れたものが消え、完全に知らない場所になっていた。家を中心に左側は頻繁に散策していたせいか、十分や二十分歩いたくらいでは知らない土地に出ることはない。それなのに、右側はたった十五分歩くだけで知らない土地に出る。次回から暫くは右へ行くことにしよう。その方が効率的だ。 「ん?」  段々と辺りが薄暗くなり始めた頃、路地から制服を着た女の子が早歩きで出てきた。背後を振り返り眉をひそめて首を傾げながら。その様子からして変質者に追われている訳ではないようだ。立ち止まったまま小さくなっていく女の子の背中を見送ってからそっと路地を覗き込んだ。しかし、不審なモノがあるようには見えなかった。  水溜りを避けながら路地に入り、中頃まで進んだところでようやく気がついた。さっき路地を覗き込んだ時には塀からはみ出していた庭の木に隠れていたため見えなかったのだろう。ブロック塀の上に気怠そうな表情で胡坐をかいて、背中を丸めて膝に頬杖をつき私を見下ろす女性が居た。  真っ白な雪のように長い髪。獲物を射るような切れ長の目。火の点いていない煙草を銜えた瑞々しい唇。豊満なボディラインを強調した窮屈そうに悲鳴をあげているシャツとスキニージーンズ。こんな場面でなければ、いや、こんな場面だからこそこんなにも惹きつけられたのかもしれない。彼女の手には竿が握られており、その先には街灯の光を反射して僅かに光る糸が結ばれていた。そして、糸の先は水溜まりに落とされたマグロでも釣れそうなほどの釣り針に繋がっている。  彼女はなんと、水溜まりで釣りをしていたのだ。
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