第一章 西暦2500年 エレナ 第二話 二人だけの旅行

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第一章 西暦2500年 エレナ 第二話 二人だけの旅行

「エレナ、ルフィナ。この国はもう駄目だ。せめてお前たちだけでも逃げなさい」 「いやよ! 私、お父さんとお母さんと一緒にいる!」 「ルフィナ、あなたも十歳になったのだから、わがまま言わないでちょうだい。このままじゃ、家族みんな駄目になっちゃうのよ? お願いだから分かって」  色褪せた黄昏(たそがれ)色の世界で少女は泣きじゃくり、両親が必死に説得している。それは今や、この国のそこかしこで見られる当たり前の光景だった。  西暦2500年、これまでに少しずつ終わりに近づいていた間氷期(かんぴょうき)が突如として終焉を迎え、世界は氷期(ひょうき)に突入した。  そして、寒冷化した地球では農作物の栽培に適した土地が急激に減少し、結果、各地で食糧不足が深刻化していた。  それは当然、この親子が暮らしているイタリア共和国北東部の歴史ある港湾都市も例外ではなく、市民の間では寒冷地に強い作物を多く栽培している国に避難しようとする動きが顕著になっていた。 「隣のマケドニア連合共和国に住んでいる私の妹を頼りなさい。地図と住所はさっき渡した通り。ルフィナはまだまだ小さいから頼んだわよ、エレナ」  見た目から10代半ばだろうか。つややかな明るい茶色の長髪の持ち主は、母に言われ、ただこくりとうなずくだけだった。  それからエレナとルフィナは二人だけで旅に出た。  ぎゅうぎゅう詰めのバスに何時間も押し込まれてリエカ、ザグレブと移動し、最後は八時間近くもバスに揺られて、叔母が住むというモスタールの町にどうにか辿り着いた。  少女二人だけの二日間の旅が順風満帆に済むはずもなく、途中のバスでは降りしなの乗客に何度もルフィナが攫われそうになったのだが、その度に誰かしらに助けられた。エレナはともかく、まだまだ幼いと言えるルフィナにとっては、それはとても過酷な経験のはずだったのだが、それでも彼女はエレナに笑顔を向け続けた。  恐らく、モスタール行きのバスもぎゅうぎゅう詰めであったなら、ルフィナの心はもたなかったかも知れない。けれど、最後のバスが、二人が座れる程度には空いていたことは幸いだった。    ―― ❄ ――― ✿ ―― 「レンカ……、レンカ・クデラと」  バスを降り、大昔のスターリ・モストの橋やドーム屋根、古めかしい石造りの建物が残る旧市街を横目に見ながら、小高い丘に囲まれた町を歩く。  メモを片手、もう片手にルフィナの手を握って叔母の家を探すエレナに、やがてコンクリート製の集合住宅が見えてきた。  地図によれば、この大通りを一本入ったところに叔母の家はあるらしい。  そうしてエレナが脇道の一つにあたりをつけて曲がれば、景色は一変。木がまばらに立つ、古ぼけた住宅街が目に飛び込んできた。 「手前から数えて六軒目……、ここね」  そこにあったのは、周りの家とほぼ同じような木造の一軒家。叔母はここに一人で暮らしているのだという。  しかし、向かって右わきのポストには名前の表示はなく、住所が書かれていなければ、ここが叔母レンカ・クデラの家だとは分からなかっただろう。 「ブザーは……」  玄関ドアの向かって左わきに大袈裟に飛び出した大きなボタンがあり、それをぐっと押し込むと、中からジリリリリと目覚まし時計のような音が聞こえてきた。  二人でじっと待つこと五分。 「レンカさん、レンカ・クデラさん、いらっしゃいますか?」  エレナがドアをノックして声を掛けてみても反応はない。 「誰も出てこないね。いないのかなあ?」  ルフィナが焦げ茶色の短く切り揃えられた髪を触りながら、不安そうな顔でエレナを見つめるが、この状況ではエレナに最適な答えは見つからなかった。  だから、「周りを探してみようか」とルフィナに提案することだけしかできなかったのだ。  けれどルフィナにはその提案は魅力的に感じられたようで、返事こそいつも通りのものだったが、庭に回り込むときには、腰をやや低くしてそろりそろりと歩いてみたり、出窓から中を覗き込む際にも、少しずつ背を伸ばしてみたりと、なんだか楽しそうに見えるのだった。  結局、家の中にはレンカ・クデラはおろか誰の人影も見えず、或いは、必要最低限の家具はあるのだが、人が生活しているのかどうかも怪しい雰囲気で、再び玄関ドアの前に戻る羽目になってしまった。 「おや、レンカちゃんのお客さんかい?」  さて、これからどうしたものかとエレナがパターン別に思考を巡らせているとき、横から女性の声がした。  見れば隣家との境にある背の低い柵の向こう側に、いかにも人の好さそうな女性が、にこにこと二人に笑顔を向けている。 「はい。……あ、初めまして。叔母のレンカがいつもお世話になっております」 「あらまあ、そう。叔母、ということはレンカちゃんの姪っ子ちゃん?」 「はい、その通りです。私はエレナ。こちらはルフィナ・カレッリ。訳あって、叔母のレンカ・クデラを訪ねてきましたが、残念ながら叔母は不在のようです」 「そう、そうだったのね。そう言われてみれば確かにルフィナちゃんの目と口はレンカちゃんにそっくりで美人さんだわ。エレナちゃんは、……お父さん似かしらね? でね、レンカちゃんはね、仕事で長期間不在にしますっていって、私に鍵を預けてお出かけしてるのよ」 「はあ。そうだったんですか」 「そうだったのよ。それでね、親戚が訪ねてきたら鍵を渡して住んでもらってて、とも言ってたわ。だからね、あなたたち」 「はい」 「レンカちゃんが戻ってくるまでここに住んだらいいんじゃないかしら?」 「しかし……」 「それ以上言わなくても私には分かるわ。食べ物の心配をしているんでしょう? それも大丈夫よ。市役所に避難民の申請をすれば、食べ物の配給をしてもらえるから。それなら、安心でしょ? ね? そうと決まったら早速鍵を渡さなきゃね。あ、そうそう、市役所までの地図も渡さなきゃ。どこにあったかしらねえ」  隣の女性はエレナに返事をさせる余地も与えず、一方的に話しかけて家の中に戻っていってしまった。 「ルフィナ、自分の市民証は持ってる?」 「うん、大丈夫。それよりさっきのおばちゃん、お喋りだね」 「そうだったね。でも、とても助かったから、後でちゃんとお礼を言わないとね」 「うん」 「やー、待たせちゃってごめんさいねー。はい、こっちが鍵で、こっちが役場までの地図。二人とも出かけるときは私が鍵を預かるから、気軽に声を掛けてちょうだいね」 「はい、ありがとうございます」 「ありがとうございます」 「あらあら、ちゃんとお礼を言えるのね。偉いわねー。最近は人攫いが出るっていうから、役場へ行くときは気を付けるのよ?」 「はい、気を付けます。何から何までありがとうございました」 「ありがとうございました」 「あ、そうそう……。あら、私、何を話そうとしてたのかしら。それじゃ、ごゆっくりね」  隣の小母様(おばさま)からようやく解放された二人は、鍵を開けて堂々とレンカ宅に上がり込み、やはり生活の気配がない家の中で、束の間の探検を楽しんだ。  その後、二人で役場に向かい、無事に避難民としての登録が許可されると、その帰り道、よほどルフィナは安心したのか、エレナの耳に背中からスゥスゥと可愛らしい寝息が聞こえてきていた。  ❄――✿ 用語 ❄――✿ 【マケドニア連合共和国】(United Republic of Macedonia。略称URM、または、マケドニア)  2401年に成立した、旧ユーゴスラビア諸国(スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロ、マケドニア)とアルバニア、ギリシャ、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、モルドバ、ジョージア、およびこの物語の世界でポーランドとイランによって分割統治されていた旧トルコ地域からなる他民族連合国家。 【エレナ】  ルフィナと二人でイタリアからマケドニア連合共和国に避難した。つややかな明るい茶色の長髪の持ち主。 【ルフィナ・カレッリ】  エレナと二人でイタリアからマケドニア連合共和国に避難した十歳の女の子。焦げ茶色のショートヘアー。 【隣の小母様】  お喋り。イタリアからレンカの家に訪ねてきたばかりのエレナとルフィナの世話を焼く。 【レンカ・クデラ】  母の妹。二人が訪ねたときは長期不在で、家の鍵を隣の小母様に預け、伝言を残した。
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