1度目は偶然

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1度目は偶然

あの雪の日が始まり。 それは、偶然―― 未明から降り始めた雪はやむこともなく降り続き、そのせいで凍った道路は大渋滞を巻き起こしていた。 歩道は両端に雪を残して、真ん中は既に多くの人によって踏み固められた状態だったから、片手で傘を持って滑らないように歩くためには、随分と注意が必要だった。 バイト先に向かうのに、いつもより1時間も早く家を出たのは、渋滞でバスに乗ってもJRの駅に着くのがいつになるのか予測できなかったから。 思った通り、今は道路を走る車より歩く方が速く前に進んでいる。 「歩いた方が早いよ」 その声で道路の方に目を向けた。 全く動いていない車の、後ろのドアが開いていて、男の人が降りた所だった。 その人は若いのに着物を着ていたので、つい見入ってしまった。 こんな朝の、通勤や通学の人ばかりの時間帯に、着物を着た男の人はめずらしい。その人の足元を見ると、着物なのだから当たり前のことなのだけど、真っ白い足袋と雪駄だったから、更に気になってしまった。 それで、つい立ち止まって見ていた。 歩道の端にはまだ雪が残っている。 どうするつもりなんだろう? その人は、少し考えていたようだったけれど、その雪を、飛び越えた―― 雪がないところは凍ってるのに! その人の足が、歩道端の雪を飛び越えて、足を地面につけた瞬間、滑ってしまいそうになったのを、抱きとめるみたいに支えた。 さっきまでさしていた傘が、歩道を転がっていく。 「ごめん! 大丈夫?」 「大……丈夫です」 「本当に……ごめんね」 間近でその人の顔を見た。 きれいな男の人だった。 男の人に「きれい」という表現は間違っているのかもしれないけれど、それが一番正しい形容詞に思えた。 その人は、そのきれいな顔で、申し訳なさそうに何度も何度もわたしに謝った。 そして、次にその人が言ったことに笑ってしまった。 「JRの駅へはどうやって行ったらいいか知ってる?」 駅がどっちなのかもわからないで車を降りたんだ…… 「わたしも駅の方へ向かっているところなので一緒に行きますか?」 「ぜひ、お願いします」 雪が降る中、傘も持っていなかった。だから、その人に、半分傘を差しだした。 「何もかもごめんね」 また、その人は申し訳なさそうにわたしに謝った。 ふたりで並んで歩いた。 「何をされている方なんですか? 着物の男の人ってあんまり見たことないから気になってしまいました」 「大学生だよ。今朝はいけばなの展示会に行くのに、新幹線の時間に間に合わないかと思って車を降りたんだけど、君に迷惑をかけることになってしまった」 「お花屋さん?」 何も知らなかったわたしはバカな質問をしてしまった。 「ちょっと違うかな。花を器にいけて作品を作り上げるんだ」 その人は気を悪くするふうもなく、笑顔で返事を返してくれた。 「そうなんですか」 そう言ったものの、やっぱりよくわかっていなかった。 「君は? 見た感じは高校生かと思ったんだけど」 「高校は……途中で辞めちゃったから、今はただのフリーターです」 この人に、素行が悪くて退学になったとか、そんなふうには思われたくないと思ってしまった。辞めたことにかわりはないのだから、理由を言ったって意味なんかないのかもしれなかったけれど。 「ずっとテニスをやってて、スポーツ推薦で高校に入ったんです。でも、何度も怪我をしてしまって……居ずらくなって自主退学しました。テニスしかやってこなかったから、今は何をしたらいいのかわからないでいます」 「怪我は、もう治ったの?」 「はい」 「だったら大丈夫。君はこれからまた、自分が決めたことをやることができるよ」 ふわっとした何かがわたしの中を抜けて行った。 その人の笑顔は、やっぱりきれいだった。 話をしながら歩いていたら、駅まではあっという間で、本当はもう少し話していたかった。 「駅、すぐそこだから、もうわかりますか?」 「うん、ありがとう。今日のお礼を改めてしたいから、名前と連絡先を聞いてもいい?」 「お礼なんていいです。わたしの方こそ、ありがとうございました」 それだけ言って、その場を離れた。 別れた後、名前だけでも聞いておけば良かったと、少し後悔した。
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