第三話 外の世界

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第三話 外の世界

 自らを影井蒼汰と名乗った男の手で、外出禁止プログラムを外された私は、彼に連れられて一〇年間過ごしていた部屋を出る。  私の住んでいた部屋は本当にマンションの一室のような作りになっていて、部屋を出たところは共用廊下となっていた。   「これが……外の世界?」  廊下から見える初めての外の景色。  おそらくこの場所は相当高いフロアなのだろう。  真っ先に視界に飛び込んできたのは青い空だった。  私の部屋には窓がなかったため、青空というものを初めて見た。  もちろん検索したりして、画像では何度も見ていたので知ってはいるのだが、知識で知っているのと実際に見るのとでは、天と地ほどの差があった。 「まるで吸い込まれそう」 「ここは十五階だから、本当に吸い込まれたら死ぬぞ?」 「私の場合は、死ぬじゃなくて壊れるだけどね」  私が反射的に答えた言葉に、彼は一瞬固まったような気がした。  何か間違っていただろうか? 「……そうだね」  彼はそれだけ言って、青空を眺める私を黙って見守っている。  不思議に思いながらも、それでも私は初めての空に心を奪われた。  今まで散々自殺志願者たちの声を聞いてきた。  何人も何人も、それこそ数えられないくらい。  彼ら彼女らは、こんな素敵な青空を知らなかったのだろうか?  それともいずれこの景色は当たり前の中に溶けていき、やがて日常という名の枠に収まって消えてしまうのだろうか? 「なんか、嫌だな」 「何がだい?」 「この綺麗な景色が日常に溶けて消えてしまうのが」  私の言葉を聞いて、影井蒼汰はクスクスと笑い始めた。  けっこう本気で言ってるんだけどな……私。 「ああ、ごめん。怒らないでくれ。ただ新鮮だっただけさ」 「新鮮? 私は新鮮なの?」 「君というより、君の反応がさ。やっぱり君を自由にして良かったよ。こんなに表情豊かに笑ってくれる君が見れるんだから」  影井蒼汰はそう言って手を差し出す。  私は自然とその手を取った。  触れた彼の手は、思っていたよりも柔らかく温かい。  こんなことも知らなかったのか私は……。 「じゃあ車で移動しようか」  彼は私の手を引いて一階まで降りると、見るからに高級そうな車に案内する。  やっぱり国に文句が言えるぐらいなのだから、お金には不自由しないんだろうな。 「さあ乗って」  私は黙って頷き、助手席に座る。  高級なシートが私の体を包み込む。  私がシートの感触を満喫しているあいだに、アクセルが踏まれて車は走りだす。 「とりあえず俺の家に向かおうか。その後のことは追々話そう」 「わかったわ」  走り出した車から見える外の世界も新鮮なものだった。  まず驚いたのは道行く人の数。  これだけの人間が社会という枠組みの中で暮らしている。  一人一人に自我があり、それぞれの考えや主張がある中で、これだけの人間が一定のルールの中で生きている。  驚きと共に、一つの納得も得た。  このルールの中で生きていけなかったはみ出し者が、私に電話をかけてきた者たちなのだ。 「どうしたの?」 「ううん、なんでもない」  彼は私の様子を訝しむ。   「あとどのくらいで着くの?」 「う~ん、二〇分ぐらいかな」  そんな会話を挟みつつも、私の視線は窓の外に釘付けだった。  背の高いビル、信号機の青い色、横断歩道を渡る子供たち。  燦燦と降り注ぐ光は、そんな景色をより強く彩る。  彼との初めてのドライブデートは、私がほとんど窓の外しか見てなかったため、無言のまま通り過ぎていく。  無言のまま私たちは、彼の住むマンションの駐車場に到着した。 「ここの十八階だ」 「随分高いのね」 「君の住んでた部屋とそこまで変わらないと思うけど?」 「それもそうね」  私の住んでいた部屋は十五階、確かに誤差の範囲だ。  ただ部屋の外に出たことのなかった私には、実感がなかったのだ。   「さあ入ってくれ」  エレベーターで一気に十八階まで上がる。共用廊下の突き当りにある角部屋が彼の部屋だ。   「お、おじゃまします」  私は借りてきたネコのように、恐る恐る彼の部屋に入る。  一人暮らしにしては随分と広い部屋だと思う。  廊下の左右にはそれぞれ洋室が二部屋ずつあり、廊下の奥のドアの先には広々としたカウンターキッチンがある。さらにその向こうには、二十畳はありそうなリビングが広がっていた。 「さあ、そこに座って」  彼は私をリビングの二人掛けソファーに座らせて、自分はテーブルを挟んだ反対側のソファーに着席する。 「これからのことなんだけど、君はどうしたい?」 「どうしたい? 私が?」  私は戸惑ってしまった。  てっきり私はここで彼と共に過ごしながら、今まで通り与えられた役割をこなしていくと思っていた。  まさか自分のしたいことを聞かれるなんて……。 「私のしたいこと? 私は……なにがしたいんだろう?」  何も思い浮かばない。  何もイメージできない。  私は自殺防止プログラムのために作られたAIだ。  彼は私をアリサと呼んでくれたが、本来は名前すらない存在。  つい先日まで人権すら無かった存在だ。   「急に言われても……何も思い浮かばない」  普段自殺志願者の電話では、あれだけ意気揚々と話せるのに、自分のこととなると途端に言葉が出なくなる。  生きるってどういうことなんだろう?  私には難しすぎるのかもしれない。 「そうか。まあそうだよな。いきなりだし、ゆっくりしながら何がしたいか考えてくれればいいよ」  彼の言葉に一つ疑問が生じる。  自殺防止プログラムはどうなるのだろう?  私が電話に出なくなったら、一体誰が? 「仕事のことなら気にしなくていいよ。アリサ以外にも電話窓口は複数体のAIが対応している」  考えてみれば当たり前だった。  私一人で足りるわけがない。  本当は足りるぐらいじゃないといけないのだろうけれど、現実はそれほど甘くない。  私には想像もつかないような理由で、人間たちは自殺を試みるのだ。
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