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ローダンセ
夏の青空が広がり、日差しの眩しい日だった。
そんな天気にもかかわらず、南 加那(みなみ かな)の気持ちは重く、今にも雨が降りそうなくらい重く沈んでいた。
都会の人の流れに沿えば、重い足取りも自然と速くならざるを得ない。
東京駅の改札を抜けて外に出ると、数々の大きな建物が見えてくる。
のどかな故郷の山々とは、まるで別世界だった。
人の声と足音、大音量で流れる広告、車のエンジン音、クラクション音、光り輝く看板やアスファルトからの輻射熱、吹き抜けるビル風……。
「うぅ……」
高めのハスキーな地声で絞り出すうめき声は、誰にも聞かれないまま、すぐに消し去られていった。
中学生に間違えられることもある小さな体に、バケツをひっくり返したように無数の情報が打ち付けてくる。
一瞬立ちくらみを覚えながらも、加那は目的に向かって持ち前の責任感で歩き始める。
五年越しに叶えた、念願の東京への旅。
なかなかまとまった休みを取れない中、やっともぎ取った連休だ。
たった一人で慣れない街に来た目的。それは大親友の唯(ゆい)の追悼だ。
五年前、唯は当時付き合っていた彼氏に殺されてしまった。
結婚式をする二ヶ月前の出来事だった。
些細なことが積み重なった結果起きた、悲しく凄惨な事件であった。
包丁で幾度となく刺された上、両腕、両足を切断され、東京の海に遺棄されたのだ。
加那と唯は幼い頃からの腐れ縁であった。
そもそも同級生が加那と唯の二人だけだった。
女の子同士ということもあって、成長してからも仲が良かった。
そのため、唯の結婚式は加那にとっても、まるで自分のことのように嬉しく、楽しみにしていた。
事件を知ったのは、スマホに流れてきたニュースの見出しだ。
初めは同姓同名の他人だと思った。
しかし、時間が経つほどに増えてくるニュースに、唯の住んでいたアパートが映り、そして聞き覚えのある容疑者の名前。
心配になった加那は、唯の実家に連絡を取り、事件に巻き込まれたのが唯自身であることを知った。
やり場のない怒り、悲しみで気が狂いそうになった。
こんなに泣き続けたのは、人生で初めての出来事であった。
涙が枯れるまで泣き、涙が出なくなっても嗚咽が止まらなかった。
葬儀に参列してからも、唯の死を受け入れるまでは時間が必要であった。
そして時が過ぎ、五年後の今日。
別れの意を伝えるためでもあるこの旅。
唯の最期の場所に行って追悼したいと思い訪れた東京。
行き交う人混みに翻弄されながら、宿泊先のホテルへ向かう。
駅から最も近いホテルを予約したのは、大の方向音痴だからだ。
慣れない東京で迷子になったら、誰にも助けてもらえないだろう。
不安でいっぱいになりながらもホテルにたどり着き、チェックインを済ませて部屋に入った。
着替えや整容道具が入ったスーツケースをベッド脇に置き、ふかふかのベッドに大の字に転がる。
新幹線で四時間、さらに道に迷う不安に苛まれながら、ようやく到着したという安堵感から、どっと疲れが吹き出してきた。
「はぁ~。疲れた~。遠いし、人多いし、ビルしかないし……。それにずっとアスファルトの上を歩いていたから、めっちゃ足疲れた~」
ぼやきながら、同時に空腹を感じる。
「お腹すいたな……せっかく都会に来たんだし、美味しいもの食べに行こうかな!」
ポケットからスマホを取り出し、駅周辺のお店を検索する。
一人旅の加那にとって、スマホは命の次に大事な相棒だ。
「あっ! ここ良いなぁ~。疲れたし、軽く食べてこようかな!」
目についたのは、美味しそうなイタリアンのお店だった。
ホテルからも近く、徒歩で五分ほどの場所だ。
加那は小さいバックを肩にかけて、迷わないようスマホを片手にホテルを出た。
こぢんまりとした外観で、木のぬくもりを感じさせる内装の素敵なお店だ。
隅の席に腰掛け、ギリギリ間に合ったランチメニューの和風パスタとサラダ、スープのセットを頼む。
軽く千円を超える値段に目を白黒させ、じっと料理が届くのを待つ。
しばらくすると、可愛らしい皿に盛り付けられたパスタが目の前に置かれた。
テレビでしか見たことのないような、おしゃれな盛り付けである。
記念にスマホで写真を取ってから、ゆっくりと食べ始めた。
「明日持っていくお花も買わなきゃなぁ。どこかいいお店あるかな……」
スマホで検索をしながら、パスタをフォークに絡めていく。
ぺろりとたいらげると、足早に会計を済ませて店を出た。
食べている間にピックアップした花屋を、マップを頼りに探し始める。
いくつか回ってみたが、なかなか加那が納得する花屋は見つからない。
さらに検索を重ねて、ようやく納得がいきそうな店を見つけたが、今いる場所よりかなり遠いところであった。
マップと乗り換えアプリを駆使して自信満々に歩いたが、なかなか目的地に近づくことができない。
「あ……あれれ??? ここどこ!? やばッ! ……迷った。完璧に……」
気がつくには遅すぎるくらいだった。
駅の出口を間違えてしまったことで、方向を完全に見失ってしまう。
焦って検索やルート設定もミスしてしまい、いつしか辺りは暗くなっていた。
ようやく正しい道に戻ることができたが、花屋があるとは思えない、居酒屋や夜のお店が並ぶ通りに出てしまった。
「んもう! 最悪……。もう遅いし、ホテルに帰ろう」
迷っている間に、時刻は23時近くになってしまっていた。
真っ暗な夜に、飲み屋の看板が色鮮やかに浮かんで見える。
そんな中をトボトボと歩いていくと、女性の悲鳴が聞こえてきた。
「きゃあああああ!」
立ちすくむ加那の横を、たくさんの人が悲鳴を上げて逃げていく。
「なっ……なに?」
加那は声の聞こえたほうに視線を向けた。
何人かの人が路上に倒れ込み、周りには逃げ惑う人々がいっぱいであった。
状況がつかめず呆然としていると、キラリと銀色に光るものが目に入る。
二十代くらいの男性が包丁を振り回し、無差別に通行人を襲っていたのだ。
「こんなこと……本当に起きるなんて……」
加那が住んでいるのどかな故郷では決して起こらない、映画かドラマのような事件を目の辺りにして血の気が引いていく。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
加那の息遣いが、恐怖で荒くなっていく。
「ああああああ!!!!!」
犯人の叫び声にハッと我に戻ると、目の前で50代半ばくらいの男性が刺されそうになっていた。
『これ以上……人が死ぬところなんて……見たくないっ』
加那はとっさに走り出し、左腕をぐっと伸ばして犯人と男性の間に割って入った。
「ダメええええええ!」
男性にタックルして地面に倒れ込み、犯人が振りかざした包丁からかばった。
そして加那は素早く立ち上がり、次の攻撃に備えて身構える。
予想通り、犯人は加那に向かって襲いかかってきた。
犯人の動きを鷹のような厳しい目で見極め、一瞬の隙を探る。
そして、目を大きく見開き、右足を大きく後ろに下げ、力を溜め気合を込めた。
「喰らえッ! 必殺奥義!」
加那は力いっぱい右脚を振り上げ、犯人の股間を一撃して悶絶させる。
「アバババババッ!」
言葉に表せないほどの痛みで、股間を両手で抑えながら犯人が地面に倒れ込んだ。
ほどなくしてパトカーのサイレンの音が聞こえ、多数の警察官が走ってきた。
犯人が身柄を確保されると、現場は緊張と恐怖の空気から安堵の空気に変わった。
幸いにも死者はおらず負傷者たちは救急車で運ばれたり、その場で応急処置をされたりしていた。
さっと身繕いした加那は、かばった男に声をかける。
「とっさのこととはいえ、押し倒してしまって失礼いたしました! お怪我はありませんか? 大丈夫ですか?」
男はゆっくりと立ち上がり、安堵の息を吐いた。
淡い茶色のサングラスをかけて、紺色のスーツを着たダンディーな男だ。
そして、腹に響くような低い声で応える。
「オレはなんともありませんよ。お嬢さんこそ怪我をしていますが、大丈夫ですか……?」
「へ?」
心配そうな視線に自分の体を見回すと、左腕の袖が切り裂かれ、血が滲んでいた。
「あっ……いつの間に! もう……お気にの服だったのに!」
頬を膨らませながら、バッグのスカーフを外し、傷に巻いて止血する。
「これでよしっと! おじさん、怪我してなくてよかったです! では私はこれで失礼します」
加那は丁寧にお辞儀すると、クルッと背を向けてその場を離れる。
すると、男は右腕をつかんで加那を引き止めた。
「待って! せめてお礼をさせてほしい!」
「えっと……」
正義感が強い加那は、当たり前の人助けをしただけだと思っていた。
「お礼をされるほどのことをしていません。お気持ちだけで結構です」
「いやっ! このままじゃ一生悔やむ。是非、お礼をさせてほしい!」
「えええ……」
困り果てる加那と、必死に加那を引き止める男。
すると、男の背後から声が聞こえた。
「大杉さん。彼女、困ってるでしょ? もう、やめなよ」
見ると、男と同年代の男性が三人並んでいた。
「この子に助けてもらったんだ。どうしてもお礼がしたくてな」
「てか、早くこの場を離れたほうが良いっすよ!」
「そっそうだな! お嬢さん、ちょっとこっちに」
「えっ!? ちょっ……待ってください!」
加那は男たちに手を引かれ、人影のない裏通りに連れて行かれた。
人が周りに居ないことを確認し、ほっとする男たち。
そして、加那の目の前で話し始める。
「大杉さん、怪我なくてよかったですよ! まさか巻き込まれていたとは……」
「危なかったよ。でもこのお嬢さんが助けてくれてね」
「ほんと怪我なくて良かったですよ! 明日撮影があるんですから! もう……自分の立場分かってますか!?」
「分かっているよ。傷モンになるわけにはいかないもんな」
「監督に怒られますよ!」
「まあ、最悪前戯だけでも……」
「あなた、メインなんだからダメでしょ。やっぱ本番やらないとさ。監督OK出さないでしょ?」
「前戯も立派な行為だと思うんだがな」
男たちの会話を聴いて、加那は唖然とする。
『この人たち何言ってるの? 撮影? 本番? 前戯? もしかしてこの人たちって……なんかいやらしい系の……やばっ?』
加那は内心冷や汗が出てきた。
『AV男優さんってやつ? 普通のおじさんだけど……。あっ、でも、だから肌に傷を負ったら大変なんだ。なら……』
「あっ……あの……」
加那の声に、話し込んでいた男たちがハッと顔を上げる。
「あっ……ごめんね。我々のことはあまり周りの人には言わないでね」
大杉は加那に優しく話す。
しかし、どこかおどおどしている。
まるでなにかに怯えているようだ。
「いっ……言いません! 絶対に! あの……本当に肌に傷がつかなくて良かったです! だって傷ついたら大変なご職業なんですもんね!」
持ち前の明るい真っ直ぐな表情で言う加那に、大杉は目を大きくして吹き出した。
「はははは! お嬢ちゃん面白いね! 尚更、お礼をしたくなっちゃたな~。あっそうだ」
大杉は加那の耳元に唇を近づけ、低音のボイスで優しく囁く。
「……これからご休憩二時間とかどうかな? 天国を見せてやるよ」
「ん?」
加那がぽかんと口を開けるのを見て、仲間たちが大杉を羽交い締めにした。
「全く……大杉さんはまたそんなこと言って! ごめんね、お嬢ちゃん」
「ご休憩がダメなら泊まりで……」
「大杉さん!」
男たちが揉めているところを見て、加那は思い切って呼びかけた。
「だっ、大丈夫です! あなたのお気持ち受け止めます。なので……」
「え! ということはオレとホテルに……」
「いや! それは結構です! お願いを聞いてくださればそれだけで……」
「お願い?」
加那は大杉から視線をそらし、恥ずかしそうに俯いた。
「私……実は道に迷っていて……一人で東京に来たので……も、もしよかったら、は、花屋さんと東京の海を案内してくださると……ありがたいな? ……って思っていまして……はぃ」
おもむろにスマホの画面を見せ、検索していた花屋と海の写真を見せる。
花屋もろくに探せなかったため、ついでに海の場所も案内してもらったほうが、この旅は平和に終わると思っていたのであった。
大杉はすぐに場所が分かったようで、大きく頷いた。
「あぁ、どっちも知ってるよ。道案内はお任せあれ」
「あ、ありがとうございます! 助かります!」
加那は満面の笑顔で頭を下げた。
「女の子の一人夜道は危ないよ。ホテルまで送ってあげようか? あ、この場合は君が泊まるホテルね」
「ありがとうございます! 本当に助かります!」
やっとホテルに帰れるという、安堵感と嬉しさでいっぱいだった。
疑いの目で見るように、仲間の一人が大杉に声をかける。
「送るだけですよ! 大杉さん! お嬢さんに手を出しちゃダメですよ!」
「酷いな~。そんなに軽い男じゃないよオレは」
「さっきまでお礼にご休憩とか、軽く言ってましたよね?」
「はて? そうだったかな?」
わざとらしく、大杉はとぼけてみせる。
「さ、お嬢さん。オレがガードマンになってあげますよ。行きましょうか」
気がつくと加那の肩に手を回し、ピタッと身体を寄せていた。
大杉があまりにも自然にスキンシップをとってくるので、初めて加那は顔を赤らめた。
慌てて首を横に振り、大杉からサッと身を離す。
「だっ! 大丈夫です! 一人で歩けますから!」
大杉はフッと笑いながら、ごく自然に加那をエスコートする。
「あ、ありがとうございました! さよなら!」
慌てて挨拶する加那を、仲間たちは手を降って見送ってくれた。
加那のホテルまで、大杉が車を回してくれた。
車に乗ってすぐ気づいたが、大杉は喫煙者であった。
ネクタイを緩め、少し乱れたスーツにサングラスをかけてタバコを吸うオジさん。
ぱっと見は、まるでヤクザのようだ。
ポケーと見ている加那に気づくと、咥えていたタバコを口から離す。
「あぁ……タバコ気になる?」
「いや! 大丈夫です! 気にしないで吸っていて良いです! 父も喫煙者なので慣れてます」
「んじゃ、遠慮なく」
再びタバコを咥えた大杉は、ゆっくりと車を発進させた。
程なくして、ポツリポツリを雨が降り始める。
雨に濡れたフロントガラス越しに見る夜景は、まるで極彩色のステンドグラス。
幻想的な光景に、加那はしばし見惚れてしまった。
「車を出して良かった。まさか雨が降ってくるとはな」
大杉の声に、加那は苦笑いで応えた。
「私、雨女なんです。だからかな?」
小さく寂しげな声に、大杉は気遣うような視線を送る。
だが、ミラーに映る加那の顔は、穏やかな微笑みが浮かんでいた。
「そういえば、名前聞いてなかったね」
「あ! そうでした! 失礼しました! 南加那と言います!」
「加那ちゃんか。可愛い名前だね。オレは大杉 右京って言うんだ」
「大杉さん?」
「そう!」
今までオジさんと呼ばれていたせいか、名前を呼ばれるとこそばゆく感じた。
大杉は誤魔化すようにタバコを吸い、深く息を吐く。
「加那ちゃんは、なんで一人で東京に遊びに来たの?」
大杉の問いかけに、加那は苦笑いを浮かべる。
「ただ遊びに来たというわけじゃなくて……。実は、同い年の親友に会うために来たんです」
「親友かぁ。オジさんも会ってみたいなぁ。加那ちゃんみたいに可愛い子かな?」
「カワイイですよ。でも……その子は」
一呼吸おいて、加那は小さな声で続けた。
「殺されちゃったんです、彼氏に。結婚式の二ヶ月前に。何気ない喧嘩をきっかけに、彼氏が勢いで首を締めちゃったみたいで……。気がついたら、息が止まっていたんだそうです。混乱した彼氏が、旅行バックに入るように手足を切断して……。遺体を東京の海まで運んで……捨てた。その海に、親友が大好きだったローダンセって花を流そうと思って……花屋さんを探してたら道に迷って、大杉さんにお会いしたってわけです」
思いもよらぬ悲しい過去を聞き、大杉は呆然となってしまった。
タバコの灰が落ちそうになっていることに気づき、慌てて灰皿へ落とす。
大杉は少し考えた後、軽く咳払いをしてから口を開いた。
「そうか……。それはつらい思いしたね」
「そっ……そうだっ! 大杉さん! お友達さんが言っていたのを聞いたんですが」
しんみりとした空気なってしまい、加那は努めて明るく振る舞って話題を変えた。
「大杉さんって、有名なAV男優さんなんですね。私、初めてAV男優さんにお会いしました」
明るく話す加那に対し、大杉は困ったような顔となる。
「好きでやってることではあるけど、世間の偏見があるからねえ。加那ちゃんだって、あまりいい気はしないだろ?」
「言われてみれば確かに偏見はあるかもしれませんね。でも……素敵だと思いますよ」
加那の返しに、大杉は意外そうに目を開いた。
「好きなことを仕事にできるって、とっても素敵なことだと思います」
予想外の言葉に、大杉はぽかんと口を開ける。
「私、背が小さいし、ハスキーボイスだし、女らしさがみじんもないんですけど。そんな私でも、大杉さんはダンディーだと思いますもん。声も素敵だし、きっとすごい男優さんなんだろうなって思います」
加那は夜景を眺めながら、少し自虐的に言う。
そんな加那の頭に、大杉はポンと手を置いた。
「加那ちゃんだって、素敵じゃないか」
「え?」
「小さいのだって、ハスキーボイスだって、加那ちゃんの個性じゃないか。それに加那ちゃんは、他人のことをちゃんと見てくれている。オレのことを助けてくれたし、職業を知っても偏見をもたなかった。他人をちゃんと見れるんだから、自分のことも大切にしないとね。せっかく可愛い顔が台無しだよ」
ニコッと笑いながら、大杉は加那の頭をワシワシ撫でた。
「子ども扱いしてます? こう見えて、30歳なんですからね!」
頬を膨らませながら、加那は大杉の手を払いのける。
大杉はニヤリと笑い、タバコをふうっと吹かした。
「55歳のオレから見れば、とっても可愛い女の子だよ」
「からかってます?」
「い~や。アハハハハ。加那ちゃんは面白いな。あぁ、タバコが美味い。今日のタバコは格別に美味い」
そう言いながら、大杉は新しいタバコに火を付けた。
気がつけば、お互い気楽に話ができるようになっていた。
変わらずしとしとと降り続ける雨の中、車内は楽しげに会話が弾んでいる。
30分ほど車を走らせると、加那の泊まるホテルに着いた。
「ここです! 夜遅くまですみませんでした」
ホテルの前に停車すると、加那はシートベルトを外しながら頭を下げた。
「大丈夫、気にしないで。明日の朝、この車で迎えに来るからね」
「分かりました。なんか、すみません」
「こちらこそ助けてくれてありがとう。今夜はゆっくりお休み」
「はい! 大杉さんも。帰り道、お気をつけて」
「では、また明日」
大杉は穏やかに微笑み、車で走り去った。
車が見えなくなるまで見送り、加那は部屋に戻る。
シャワーを浴び、髪を乾かし、歯磨きをして、ごろんとベッドに寝転んだ。
寝付くまでいつもSNSを眺めるのが、加那のルーチンワークだ。
ふと思いついて、「大杉右京」の名前を検索する。
すると、本人のSNSアカウントが見つかった。
「これから現場で仕事」という投稿が主で、中には上半身裸でベッドに横たわりながら自撮りしている写真もあった。
「本当にAV男優さんなんだなぁ」
改めて実感が湧き、なんだか妙に恥ずかしくなってしまった。
少し作品を見てみると、若い子から熟女まで幅広い年代の人を相手にしている。
そして、その作品に合わせた役柄をこなしていた。
「すごいな……みんな平等に相手にしている。その作品に合わせているから、こっちまで世界観に入り込めるくらい魅力的……。話してみると普通のオジさんなのにな。それにいろんなリスクあるのに……すごいや」
作中でのAV男優の顔は、さっきまで話していた大杉の姿と大きなギャップがあった。
だからといって、偏見を持った訳ではない。
加那は心から感銘を受けていた。
「本当に肌に傷が出来なくてよかった。作品見れば尚更だよ……。もう誰も傷つくところなんて見るのは……勘弁だよ」
気がつくと、頬に熱いものが伝っていた。
「あ……あれ?」
頬に手をやり、自分が泣いていることに気がついた。
いや、気づかないふりをしていたのかもしれない。
不意に思い出した、親友の唯の死。
まだ、加那には向き合う『覚悟』が出来ていないのかもしれなかった。
◇◆◇
昨夜の雨は嘘だったかのような日差しで、アスファルトは乾きっていた。
加那は大杉と約束している時間に間に合うように、ホテルのモーニングで済ませ、大急ぎで支度をする。
まだ、昨日の負傷した左腕には痛みが感じられた。
応急処置で絆創膏を貼りながら、時計を見て驚く。
「あ! もうこんな時間! 待たせちゃう! 急がなきゃ!」
加那は急いでバックを持って部屋を後にする。
外に出るとハザードランプのついた車があり、運転席で大杉が手を振っていた。
加那が駆け寄ると、大杉は運転席から身を乗り出し、助手席のドアを開けてくれる。
昨日のスーツとは違って、ワイルドな私服姿だった。
歳を感じさせないブーツに、ヒョウ柄のズボン、小豆色のシャツを見事に着こなしている。
相変わらず、濃い色のサングラスを掛けていた。
「おはよう。ゆっくり休めたかい?」
爽やかな朝には不似合いな低音ボイスを聞き、心臓の鼓動が速まってしまう。
それは「AV男優の大杉右京」を見たせいであった。
気持ちを誤魔化すように、加那はあたふたしながら挨拶を返した。
「お、おはようございます! なんかすみません……貴重なお休みの日に……」
「そんなことないよ。命を救ってもらった恩返しだ。さ、乗って」
「は、はい!」
加那は慌てながら助手席に乗り、シートベルトを締める。
大杉は加那の様子を見つめながら、ゆっくりと車を出す。
「えっと……まずは花屋だったね」
「あ、はい! ほんと、お手数おかけします……」
「今日、謝ってばかりだね」
タバコに火を点けながら、大杉はクスリと笑う。
いたたまれなくなり、加那は俯いてしまった。
加那の頬が赤くなっているのに気づき、大杉は囁くように言う。
「もしかして……オレのヤッている作品見た?」
耳元で囁かれるように言われ、加那はドキッとする。
モジモジしながら、恥ずかしそうに頷いた。
「すっ……すみません。み、見ました」
少し口角を上げながら、大杉はいじわるな口調で言う。
「良いよ~、加那ちゃんには特別に同じことをやっても」
「い、いえっ! 結構です!」
「そっか~、残念だな~。オレはいつでも良いよ~」
「だから、いいですってば!」
加那は頬をふくらませながら、大杉の顔を見た。
「やっとオレの顔見てくれた」
サングラスの奥の目に、優しさを感じられた。
「正直、見てるこっちも恥ずかしかったです。でも……本当に大杉さんが怪我しなくてよかったなって思いました」
「おかんみたいだね」
「お、おかん!?」
「面白いね、本当に」
他愛もない話をしているうちに、目的の花屋に到着した。
車を駐車場に停めた大杉を待たせ、加那は急いで店に入る。
「すみません、ローダンセありますか?」
店に入るやいなや、加那は店員に尋ねた。
「ええと、ございますよ。ご贈答ですか?」
「はい、25本で、緑のリボンつけてもらって良いですか?」
「かしこまりました。少々お待ちください」
手際よく注文通りの花束をこしらえる店員を、加那はソワソワしながら見つめる。
会計を済ませ、ローダンセの花束を優しく抱えて店を出る。
「おお、いい香りだね」
「はい。ほしかった25本買うことができました」
加那が抱える花束を見て、大杉は目を細めた。
次の目的地である海を目指して、大杉は車を走らせる。
澄んだ目で花束を見つめる加那を見て、大杉が口を開いた。
「なんで25本なの?」
「あぁ……。親友は25歳で亡くなったんです。それで……」
「そうか。まだまだ遊びたい盛りだっただろうに……」
「そうですね。これからたくさん楽しいことが待っていたと思うんですけどね」
悲しそうに俯いた加那は、静かに頷いた。
「私、親友の分まで精一杯生きようと思うんです。そして、誰かが傷ついている人がいたら助けてあげたいんです。もう、誰も傷つくところなんて見たくないので……」
「だから、あんな無茶をしてまでオレのことを助けてくれたの?」
「そうですね。正直、怖かったですけど」
加那は照れ笑いを浮かべながら言う。
「さすがにやりすぎだよ。女の子なんだからね。無茶をしちゃダメだ」
「フフフッ、ごめんなさい。いつも身体が先に動いちゃうんですよ。……ところで、大杉さん」
加那は遠くを見つめながら、大杉に尋ねた。
「ローダンセの花言葉、知ってます?」
「花言葉? いや、分からないなぁ」
ローダンセの花束を見ながら、か細い声で加那は答えた。
「変わらぬ思い、変わらぬ友情……」
タバコをふかしながら、大杉はゆっくりと頷いた。
「なるほど。変わらぬ思い、友情……。加那ちゃんの気持ちが込められているんだね」
「そうです。たった二人だけの同級生で、進む道が違っても関係は変わらず、ずっと素で居られる仲良しでした」
「素……か」
ため息混じりに呟く大杉の顔は、どこか寂しさを感じさせる。
「……大杉さん? なんかつらそう」
「君は……エスパーか?」
心配そうに問いかける加那に、大杉は笑いながら言う。
「大杉さんは嘘をつけない人なんですね。顔に出てますよ? 何か隠してませんか?」
「そうだね……思い詰めていることはあるね」
「ん?」
まだ吸いきっていないタバコを、大杉は灰皿で押しつぶす。
「この業界で30年以上いるんだけどね。ヤりたいからとか、女の子が好きだからとか、そんな風に言われることも多い。実際は、監督が設定したことを嫌でもやらなきゃいけなかったり、それなりのリスクもあったり、色々と背負ってやっている。性病検査は欠かさずやったりとか、いろいろあるんだよ。それに……昔から自分の声はコンプレックスでさ」
「あぁ、声のコンプレックス分かります。私もハスキー過ぎて嫌でした。正直、もっと女の子らしい声が良かったって思っていました。でも、親友は、加那らしくて好きって言ってくれたんです。大杉さんの声、素敵な声だなぁって初めて会ったときに思ったんですよね」
「なんか照れるな。そう言ってくれると嬉しいね。加那ちゃんの声も可愛らしくて良いよ」
「あ、ありがとうございます。私、コンプレックスは個性と思っているんです。そして、そのコンプレックスを乗り越える時を必殺技、奥義って言ってます」
「なんだか中二病みたいだね」
「フフフ。だってコンプレックス乗り越えた時ってめっちゃMP消費した感じがするんですよねー。でも、MP消費した分、経験値がバク上がりしてレベルも上がる感じがするんです」
加那の表情は、妙に大人びたように見えた。
前向きな加那の言葉に、大杉は心が浄化されるようにも感じた。
再び新しいタバコを取り出し、火を付けてゆっくりと吸い込む。
そのタバコはいつもより美味しく感じられた。
ようやく目的地の海に着き、二人は車から降りた。
砂浜の向こうに広がる水平線は、少しオレンジ色に染まっていた。
車から降りた二人は、砂浜を歩いて波打ち際まで来る。
加那は、海をじっと見つめながら、ローダンセの花束をギュッと握り締めた。
そして、深く静かに一度深呼吸をすると、波に委ねるように花束をそっと海に流す。
ゆっくりゆっくり、25本のローダンゼは波に乗って沖まで流れて行った。
大杉はただただ、加那の震える背中を見つめて見守っていた。
「加那ちゃん」
「あっ、もうちょっとだけ……」
加那の声は、あふれる想いに震えていた。
大杉は後ろから手を回し、優しく加那を腕の中に包み込んだ。
「お、大杉さん!? あっ……あのっ」
「シッ……加那ちゃんがまた笑って、オレの目を見てくれるまでこのままで良いよ。ごめんね。オレ、こういうことしか女の子を慰める方法知らないんだ」
「うっ……うぅ……」
優しく囁く大杉の声、言葉がひとつひとつが加那の心に染み入ってくる。
沸き上がる様々な想いが、加那の目から大粒の涙となって溢れ出す。
「やっぱり……どんなに時間が経っても……悲しいよぉ。辛いよぉ。もう一度……会いたいよぉ……」
「うん……うん」
「もう一度会って……もう一度会って、『ずっと親友だよ!』って……結に触れて、手と握って伝えたい! 言いたい!」
「加那ちゃんの思いは唯ちゃんにちゃんと届いてるよ」
大杉の声は少し震え、目には涙を滲ませていた。
「私、犯人から大杉さんのこと守れても……自分が傷ついても……弱い。弱すぎるよ……」
「弱くなんかないさ。加那ちゃんはオレのことを助けてくれた。こんなに小さい身体しているのに、大きな力、勇気を持っている。たった一人でここまで来た。あと……加那ちゃんにしか持っていない必殺技を持っているじゃないか」
「うえぇーーーん!!!」
優しい温かい声で言う大杉。
大杉の腕を両手で掴み、加那は、届かない親友に向かって泣きじゃくっていた。
どのくらいの時間が過ぎただろうか。
夕日は水平線に沈み、辺りは薄暗くなっていた。
加那と大杉は、車の中で静かに座っていた。
フロントガラスからは、広い海が望める。
「なんか……お見苦しいところお見せしてしまって、すみませんでした……」
泣きつかれた加那は、小さく声を絞り出す。
相変わらずタバコを吸っている大杉は、加那を見て微笑んだ。
「いや。謝ることなんて何もないよ。少しは落ち着いたかい? 寒くない?」
「大丈夫です」
まだ両目が腫れぼったいまま、加那は何かを誓うようにまっすぐ海を見つめながら言う。
「帰りましょうか」
「承知しました」
大杉は静かに車を走らせる。
『またね、唯』
加那は心の中でそう呟き、海に別れを告げた。
海を背に走る車。
『ありがとう、加那』
「えっ!?」
結の声が聞こえた加那。
体を大きくねじって振り向くも誰もおらず。
誰も居ないことを目視し、肩を下ろして前を向く。
「どうしたの? なにか忘れ物した?」
とっさの行動をとった加那に心配して言う。
「……いえ、すみません。なんでもありません。帰りましょー!」
姿勢を真っ直ぐに座り直す。
加那の目は強い決意を持ったように前をしっかり向いていた。
しばらくして、加那が泊まるホテルに着く。
「本当にありがとうございました。車まで出していただきまして。それにお恥ずかしいところまでお見せしてしまって……」
「そんなことないよ。これでお礼できたかな?」
「もう充分すぎるほどです!」
加那の目は街の灯りに照らされ、キラキラと輝いて見える。
「それなら良かった。加那ちゃん、明日東京を発つんだっけ?」
「そうです。朝一番の新幹線に乗って帰ろうかなと思っていました。次の日、仕事なので早めに帰って家で休みたいので」
「そっか……」
大杉は寂しげに呟く。
「じゃー、色々とお世話に……」
そう言って、加那は車から降りようとした。
「待って!」
大杉が加那の腕を掴む。
「はい?」
「何時の新幹線で帰るの?」
「えっと……朝の七時半頃かな?」
「七時半だね! 見送りに行くね!」
「えぇ? い、いや。大丈夫ですよ」
「いや……見送らせてくれ」
「あ……はい。分かりました。じゃあ、また明日ですね!」
そう言って加那は車を降りて、大杉を見送る。
大杉の車が見えなくなると、加那はホテルに入っていった。
翌日。
冷たい雨がしとしとと降っていた。
チェックアウトを済ませ、ホテルを出てきた加那を待っていたのは、見覚えのある車の前で黒い傘を差して待つ大杉であった。
初めて見るスーツ姿であった。
「おはようございます。最後の最後まで、しかも朝早くからすみません」
「おはよう。そんなことないよ。ほら、濡れちゃうし車に入って。荷物、後部座席に置くよ」
「ありがとうございます!」
二人は東京駅を目指す。
駅に着くと、加那が乗る新幹線のホームへ向かう。
改札口で立ち止まり、二人は向かい合った。
「あ! ここですね!」
「良かった。間に合って。クククッ。加那ちゃん、自信満々に歩くからついていったのに、まさか見事に迷ってくれるとは」
大杉は笑いながら言う。
「もう、そんなに笑わなくたって」
「ごめんごめん」
顔を真っ赤にして膨れる加那と、笑いをこらえきれない大杉。
時計の針は、新幹線が発車する10分前を指していた。
「では、行きますね。お世話になりました。大杉さんもお仕事頑張ってください。応援してます」
「こちらこそありがとう。加那ちゃんも気をつけて帰ってね。元気でね。また東京に来る時に会えたらいいね」
「またいつか会えますよ」
「そうだね。オレの作品、検索すればいつでも見れるからね」
笑顔で言う加那の耳元に口を近づけて、大杉は低音ボイスで優しく囁く。
「んんんっ!」
加那は一気に羞恥心を覚え、頬を赤らませる。
「ごめんごめん! 公共の場だったね。ほんと面白いな加那ちゃんは」
「もう! 大杉さんったら!」
二人は無邪気に笑い合う。
「じゃあ、また! 大杉さん、ありがとうございました!」
「またね、加那ちゃん」
加那はそう言うと振り向かず、改札を抜けてホームへ向かっていく。
加那の姿が見えなくなるまで見届けた大杉は、やっと後方を向き、背伸びする。
「……さて、現場に向かいますか」
いつの間にか雨が止んだ空には、七色の虹がくっきりとかかっていた。
カラッと晴れた天気は、まるで二人の心の雨が止んだようにも思える。
どんな事があっても、誰かの命が絶えようとも、時間は同じ速さで止まることなく時を刻んでいく。
たった一日の出会いは、加那と大杉の心に爽やかな想い出を残していった。
そして、何気ない日常が続いていく。
おしまい
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