亡国の影

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最初に正式にロナンと会ったのは、母が亡くなった直後だった。鍛え上げた肉体にそぐわないほどの美しい顔立ちと優しい眼差し。まだ3歳の僕に、彼は(うやうや)しく(ひざまず)いて笑顔を見せた。 『初めまして、ナギ様。私とチェスをしませんか』 子ども相手に手加減しない彼と幾千もの対局を重ね、僕が初めて彼を打ち負かしたのは7つの時だった。 自分の退路が塞がれたことに気がつくと、彼は降参するように両手を挙げて微笑んだ。 近衛の隊長を務めていたロナンは、自ら僕の教育係を買って出たらしい。読み書きは勿論、数学や歴史、科学全般を彼から学び、剣術も教えて貰った。 馬術も筋がいいと褒められたが、彼の愛馬のネロは手強かった。青毛と呼ばれる漆黒の毛並みはビロードのように輝き、(たてがみ)と尾を風に(なび)かせる雄姿は人をも威圧した。 『気を飲まれたら負けですよ、ナギ様』 睨み合いで負けたつもりはないが、鞍上から脇腹を蹴って「進め」の指示を出しても、ネロは梃子(てこ)でも動かなかった。ロナンは笑いを噛み殺し、僕は顔を真っ赤にしてネロの尻に鞭を入れた。 『坐骨に全体重を掛けて下さい』 踵を下げ肩の力を抜いて言われた通りにすると、ネロがスッと前に進んだ。すかさず(はみ)でその力を受け、手綱で手の内に(おさ)めていく。まだ口は硬く僕を完全に認めたわけではなかったが、ネロが(こた)えてくれたことが嬉しかった。 5分ほど風を切って馬場を走らせた後に、止まれの指示を出し首筋を叩いて愛撫して(ねぎらって)やった。 『舐められたな』 『いいえ。大したものです。私の部下で彼を動かせた者は一人もいませんよ』 人間と違って動物は忖度しない。 ロナンの声音に称賛の色を感じて、僕はとても誇らしくなった。 ロナンが角砂糖を掌にのせると、ネロはあっという間に食べてしまった。鼻面を撫でられると甘えるようにすり寄せて、まるで小さな子どもみたいだ。 僕も手を伸ばすと、ネロはじっと見つめてきた。 『よい友になれそうですね』 『馬とか』 『私と彼は親友ですよ』 ロナンは僕に学ぶ喜びと存在意義を植え付けた。 生きる意味を見失った僕に、ひとすじの光を与えてくれた。
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