81人が本棚に入れています
本棚に追加
/87ページ
……あっ。
私は心の中で声をあげた。
それは、ほんのいっとき、人通りの波が引いた時のこと。地下通路の先から、その人はいつもどおり、通勤鞄とスマートフォンを手に歩いてくる。
今日も目が合った。
しかも、その人は、きょろきょろと周囲へ視線を送り、誰にも見られていないことを確認してから、近づいてくるではないか。
それは会社員風の若い男性。癖のあるふわふわした黒髪。スーツの長い脚。やさしげなすっきりした目元にすうっと高い鼻、シャープなフェイスライン。
改めて向かい合って気が付いたけれど、甘いフェイスの美形だ。ただし、その目元にはくっきりクマが浮かんでいる。
半径一メートルの距離に、私は妙にどぎまぎしてしまう。
ギターを鳴らしているはずなのに、男性の声は明瞭に耳に届いた。
「――あのさあ」
それは無遠慮な第一声。
私はマイクにかじりついたまま、目をぱちぱちさせた。
「きみ多分とっくに死んでるよ」
あまりに荒唐無稽な台詞に、私はロックミュージックを中断した。
「――は?」
余韻を残し、弦は鳴りやむ。
訝しげに見上げると、彼はこともなげに言った。
「俺霊感体質でさ、視えるんだよそういうの」
「……なんの話よ?」
この頃になると、胸中ではすっかり警戒心が幅を利かせ始めていた。
「だから、俺以外にきみが視えてるやついないだろ」
前方から親子連れが歩いてくるのを見つけた途端、
「やべ、人来た。……じゃ」
男性はそそくさと、逃げるように去っていった。
「…………」
なんだ、ただのやばいやつだったわ。
私はため息を吐くと、演奏を再開した。
最初のコメントを投稿しよう!